2.電子顕微鏡による分類の歴史
透過型電子顕微鏡の発明
透過型電子顕微鏡(透過型電顕:TEM)は1932年にドイツのクノル (M.Knoll) とルスカ (Ruska) によって発明されました。珪藻は光学顕微鏡学者の観察材料として、形や模様がたいへん魅力的であったように、電子顕微鏡学者にとっても興味深い材料であったようで、透過型電顕の発明後まもなくの1939年にマール (H.Mahl)によって観察されています。
黎明期のTEMによる研究
<1960〜1970年代>
珪藻学者による透過型電顕観察の黎明期においては、殻の微細構造の形態学的な研究が主要な目的でした。つまり、種名が同定された珪藻についてその微細構造を調べるということが主に行われ、微細構造を用いて種を分類するという現在よく行われている研究方法とは逆の電子顕微鏡の使われ方がされていたのです。1960年〜1970年代にドイツではヘルムケとクリーガー (J.-G.Helmcke & W.Krieger) が、また我国では当時京都工芸繊維大学にいた奥野春雄が先駆的研究を多く残しています。彼らの研究より、どのような珪藻であっても、殻の模様は、微細であり、かつ多様な形態を示す多数の胞紋あるいは長胞と呼ばれる構造からできていることが判明しました。
<胞紋構造の解明>
胞紋の構造は実際は19世紀末から20世紀初頭にかけドイツのカールステン (G.Karsten)によって光学顕微鏡観察から想像した立体構造が示されていましたが、それは海産の非常に大形の種類についてのみでした。この胞紋は殻の断面において中空の小室状の構造として認められるもので、その外側および内側表面にはさらに細かな10〜100ナノメーターのオーダー(1ナノメーターは1/1000マイクロメーター)の小孔を持つ薄い珪酸質の膜で被われています。殻は光学顕微鏡では、模様のついたツルリとしたガラス箱のように見えますが、実際は孔だらけのガラス箱であったわけです。実際珪藻はこのような孔があるからこそ、珪酸質の殻を持っていても養分の吸収や、呼吸や光合成におけるガス交換が可能で、その結果,生命の維持ができるのです。ナノメーターの整然と並んだ殻の模様を見るたび、どうやって単細胞の生物がここまで巧みに構造を作ることができるのか、生命の妙を感ぜざるを得ません。
<TEMによる観察方法>
一般に透過型電顕で細胞を観察する場合は、試料を超薄な切片にし、酢酸ウランや鉛で電子染色を施した後観察する方法がとられます。しかし珪藻の殻を観察する場合は、殻自体が薄くまた電子線を通さない性質を持つため超薄切片を作らなくてよく、そのため試料の作成が容易です。また観察時に試料を5度程傾けて写真を2枚撮ること(ステレオ写真)により、構造を立体的に解析することが可能です。。前述のヘルムケとクリーガー編集による『電子顕微鏡写真による珪藻殻』には多数のステレオ写真が載っています。
透過型電顕を用いた場合、奥に入り込んだような構造や、突出した構造は観察が難しく,まして殻表面の細かな起伏の観察は不可能です。このような場合レプリカ法を用いると、うまく観察ができます。これは、珪藻殻に金属を蒸着させ、その後殻のみをフッ化水素で溶かし、後に残った薄皮のような蒸着金属を観察するものです。しかし、レプリカ法は手順が面倒であるうえ、電顕像もコントラストに欠けいま一つ物足りません。起伏のある構造や、表面構造の観察には,何と言っても走査型電子顕微鏡による観察が一番効果的です。
走査型電子顕微鏡の発明
走査型電子顕微鏡(走査型電顕:SEM)の原理は、透過型電顕にさほど遅れをとらず、すでに1935年にクノル (M.Knoll)によって原理が示され、1938年にアールデンネ (V.Ardenne)によって試作されていました。しかし当時は透過型の開発に主力がおかれていたため走査型の発達は1960年代に入ってからとなりました。走査型電顕で珪藻殻を観察するための試料作りはいたって簡単です。すなわち珪藻を真鍮またはアルミでできた試料台の上に載せ乾燥させた後、金、金パラジウム、白金などで蒸着するだけで検鏡できるのです。
1960〜1970年代のSEMによる研究
1960年代の走査型電顕による研究は「新しい武器である走査型電顕で見た珪藻殻の立体像」というところに力点がおかれている報文が多く見られます。しかし1970年代になると珪藻植物全体を見渡し、その形態より系統をとらえるという試みがなされるようになってきました。1973年、シュレイダー (H.-J.Schrader) はさまざまな縦溝の種類を列挙し、1973年、ハスレー (G.R.Hasle) は縦溝の起源を多くの種の形態観察により唇状突起であろうと考え、また1977年コックス (E.J.Cox)は舟形珪藻類間での縦溝について考察を行っています。縦溝とは羽状類珪藻の多くの属にみられる殻を長軸方向に走るスリットのことで、この構造を持つ種類は基物に付着している時に移動(滑走運動)をする事ができます。さらに1979年、シムスとパッドク (P.A.Sims & T.B.B. Paddock) は舟形珪藻類の一部の属および種にみられる構造であるキャノピーと縦走管との系統的関係を考察しています。上記論文のうちハスレーの仮説はその後1980年代になって細胞学的見地からも大いに支持を得ており、珪藻の系統進化において重要な研究であると言えましょう。
1980年以降のSEMによる研究
1980年以降は走査型電顕からの結果に、透過型電顕や光顕からの結果を組み合わせ、さらに個体発生学の知見や細胞学的知見も取り入れて、珪藻植物全体の系統進化を探る試みが行われています。走査型電顕はこのように大きな流れを解析するための研究に用いられている一方、属の違い、あるいは属内の種の違いを明確にするために微細構造を観察するという研究方向にもますます使われてきています。今や光学顕微鏡のみの観察では珪藻の分類学は成り立たなくなってきているのです。今日のの珪藻の分類学的研究では、多くの研究者がタイプ標本との比較を電子顕微鏡を用いて行うようになり、今まで曖昧であった種類の分類が確実に行えるようになりました。