研究の歴史(分類学編)
珪藻はミクロの生物であるにもかかわらず、その研究の歴史は意外と長く200年以上の歴史がある。これは珪藻がいたるところに出現し、またその種類も大変に多く、常に研究者の探究心をかき立たせていたことによるが、珪藻の殻の模様の美しさが研究者を魅了していたこともその一因であるかもしれない。ここでは最も長い歴史を持つ分類学の話をしよう。
18世紀前半
珪藻の観察はレーヴェンフック (Leeuwenhoek)が性能の良い光学顕微鏡を発明して間もない頃にすでにされていたようである。(Leeuwenhoekはしばしば光学顕微鏡の発明者とされることもあるが,彼よりも前の時代に改良された虫眼鏡のようなものはすでに作られていた)。レーヴェンフック自身、1703年の著書中で珪藻とおぼしき物を描いているが、はっきり珪藻とわかるスケッチと記述は1753年のベーカー (H.Baker) によるものが最初であろう。
18世紀後半
ミューラー (O.R.Mueller)によって珪藻にも「ニ名法」によるラテン語の学名がつけられるようになった。当時の学者は顕微鏡で見える小さな生物は、珪藻であろうが、鞭毛虫であろうが、アメーバであろうがすべて「滴虫類」というカテゴリーに分類していた。珪藻には後述するように動く(滑走運動)ものがある。そのため、18世紀後半から19世紀初頭にかけては、動物の学術雑誌にも珪藻が記載されている。
19世紀前半
ドイツのエーレンベルグ (C.G.Ehrenberg) キュッツィング (F.T.Kuetzing)、スウェーデンのアガード (C.A.Agardh)、やや遅れてイギリスのラルフス (J.Ralfs) といった顕微鏡学者・藻類学者の大家が多くの基本的な種類を記載し珪藻分類の基礎を作り上げた。彼らは水中から珪藻を見いだすばかりでなく、珪藻土からも多くの種を記載した。珪藻土とは、珪藻細胞が死んだ後、珪酸質であるため腐敗しない殻が多量に堆積してできたもので、粘土やシルトの他に珪藻の殻を多量に含み(SiO2として70%以上含有)白色〜灰色をしているものである。
当時の顕微鏡はまだ性能があまり良くなく、さらにプレパラートもガラスを使ったものでなく、マイカ板に試料を載せただけのものであったため、細かい殻の模様については詳しい観察ができなかった。エーレンベルグの標本はベルリンのフンボルト大学自然科学博物館、キュッツィングの標本はロンドンの自然史博物館、アガードのものはルントの植物学博物館に今でも大切に保存され,現代の珪藻分類学者によってしばしば再研究されている。
19世紀後半
珪藻の分類分野にもダーウィン (C. Dawin)の進化論の影響が及んでくる。すなわち、それ以前の分類はすべて種の単位で行われていたものが、種の進化過程におけるより密接な系統関係を表すため、変種あるいは品種という種以下の分類群がオーストリアのグルノウ (A.Grunow)らによって盛んに記載されるようになった。この時代になるとプレパラートはカバーガラスとスライドガラスより作られるようになり、また顕微鏡レンズも高性能のものが作られるようになったので、現在の光顕観察と同レベルの観察がなされるようになった。この時代イギリスではスミス (W.Smith)、グレゴリー (W.Gregory)、スウェーデンではクレヴ (P.T.Clev) といった研究者が多くの研究を残している。
20世紀前〜中期
<高性能封入剤の開発>
光学顕微鏡を用いた分類は頂点を迎え、数多くの優れた論文が書かれるようになった。その一因としてプレパラートを作る際の封入剤が旧来使われていた樹皮からとった樹脂のカナダバルサムから、スティーラックス (Styrax)、また人造樹脂のハイラックス (Hyrax)、プルーラックス (Pleurax)と高屈折率の封入剤に変わり、高いコントラストで殻の微細な模様を観察できるようになったことがあげられる。ハイラックス、プルーラックスの使用はアメリカのカリフォルニアで化石珪藻の研究をしていたハンナ (G.D.Hanna) によって報告され、その後世界に大いに普及した。
<珪藻分類界のスパースター:フステット>
近世における数ある珪藻分類の学者の中で、その仕事の量と質で特筆すべき研究者はフステット (F.Hustedt)である。彼は1886年ドイツ北部のブレーメンに生まれ、53歳までは国民学校の教員であったが、その後プレーン水生生物研究所に所属し、67歳以降は自宅で研究に勤しんだ。彼は1968年、82歳で没するまでの58年間に116編の論文を発表したが、その中には近年までは珪藻分類入門者のバイブルとされた『パッシャー (A.Pascher)編.中欧の淡水植物相:第10集.珪藻』や『ラーベンホルスト (L.Rabenhorst)編.ドイツ,オーストリア,スイスの隠花植物相:第7巻.珪藻』などの名著、大著が含まれている。現在彼の研究した膨大な数の材料とプレパラートは、ブレーマーハーフェンにあるアルフレッド・ウェゲナー研究所内の彼を記念して設けられた一室の中に整然と保存されている。またそこには、彼の観察した全ての種類について、どのプレパラートに入っているかがわかるカード式のインデックスと、どの地点から採集した珪藻がどのプレパラートに入っているかがわかるインデックスが作られており、たいへん整理が行き届いた珪藻標本庫の感がある。
<欧米以外の研究者>
19世紀まで、珪藻の研究はもっぱら西ヨーロッパの学者によってなされていたが、20世紀になると他の地域にも珪藻の研究が広まった。ハンガリーではパンチェック (J.Pantocsek) が研究を開始し、またロシア革命で満州に亡命したスコルツォフ (B.W.Skvortzow) はハルピンで中国や日本の珪藻を研究した。またハンガリー生まれのチョルノキー (B.J.Cholnoky)は南アフリカに移住しアフリカから多くの新種を記載すると共に珪藻の生態学的研究を活発に行った。
<アメリカにおける研究>
アメリカで珪藻研究の根拠地となったのはフィラデルフィアのアカデミーであった。それはボイヤー (C.S.Boyer))によって礎が作られ、パトリック (R.Patrick) とライマー (C.W.Reimer) によって引き継がれた。彼らにより2巻より成る一大モノグラフ『アメリカの珪藻』が出版されている。パトリックはおそらく珪藻学者の中で最も初めに国際植物命名規約に書かれてある「タイプ法」に従って分類研究を行った学者であろう。アメリカは珪藻研究の歴史ではスタートに遅れをとったが、アカデミーでは財力にまかせヨーロッパで過去に研究された古典的かつ重要な珪藻プレパラートをことあるたびに購入したのである。そのため19世紀にヨーロッパの研究者が新種を見いだした試料と同一の試料から作ったプレパラート(国際植物命名規約で言うところのアイソタイプ:副基準標本)を多数保有することができた。このアカデミーの珪藻標本庫もブレーマーハーフェンのものと勝るとも劣らず整理のされた見事な標本庫である。また,サンフランシスコにあるカリフォルニア自然科学アカデミーにも整頓された珪藻コレクションがある。ここは化石珪藻を専門としたハンナ (G.D.Hanna) の標本をはじめとし,多くのアメリカ産の標本が保存されている。目録はコンピュータ管理されており近代的な標本庫である。
透過型電子顕微鏡の発明
透過型電子顕微鏡(透過型電顕:TEM)は1932年にドイツのクノル (M.Knoll) とルスカ (Ruska) によって発明された。珪藻は光学顕微鏡学者の観察材料として、形や模様がたいへん魅力的であったように、電子顕微鏡学者にとっても興味深い材料であったようで、透過型電顕の発明後まもなくの1939年にマール (H.Mahl)によって観察されている。
黎明期のTEMによる研究
<1960〜1970年代>
珪藻学者による透過型電顕観察の黎明期においては、殻の微細構造の形態学的な研究が主要な目的であった。つまり、種名が同定された珪藻についてその微細構造を調べるということが主に行われ、微細構造を用いて種を分類するという現在よく行われている研究方法とは逆の電子顕微鏡の使われ方がされていた。1960年〜1970年代にドイツではヘルムケとクリーガー (J.-G.Helmcke & W.Krieger) が、また我国では当時京都工芸繊維大学にいた奥野春雄が先駆的研究を多く残している。彼らの研究より、どのような珪藻であっても、殻の模様は、微細であり、かつ多様な形態を示す多数の胞紋あるいは長胞と呼ばれる構造からできていることが判明した。
<胞紋構造の解明>
胞紋の構造は実際は19世紀末から20世紀初頭にかけドイツのカールステン (G.Karsten)によって光学顕微鏡観察から想像した立体構造が示されていたが、それは海産の非常に大形の種類についてのみであった。この胞紋は殻の断面において中空の小室状の構造として認められるものであり、その外側および内側表面はさらに細かな10〜100ナノメーターのオーダー(1ナノメーターは1/1000マイクロメーター)の小孔を持つ薄い珪酸質の膜で被われているのである。殻は光学顕微鏡では、模様のついたツルリとしたガラス箱のように見えるが、実際は孔だらけのガラス箱であったわけである。実際珪藻はこのような孔があるからこそ、珪酸質の殻を持っていても養分の吸収や、呼吸や光合成におけるガス交換が可能で、生命の維持ができるわけである。ナノメーターの整然と並んだ殻の模様を見るたび、どうやって単細胞の生物がここまで巧みに構造を作ることができるのか、生命の妙を感ぜざるを得ない。
<TEMによる観察方法>
一般に透過型電顕で細胞を観察する場合は、試料を超薄な切片にし、酢酸ウランや鉛で電子染色を施した後観察する方法がとられる。しかし珪藻の殻を観察する場合は、殻自体が薄くまた電子線を通さない性質を持つため超薄切片を作らなくてよく、それゆえ試料の作成が容易である。また観察時に試料を5度程傾けて写真を2枚撮ること(ステレオ写真)により、構造を立体的に解析することが可能である。前述のヘルムケとクリーガー編集による『電子顕微鏡写真による珪藻殻』には多数のステレオ写真が載っている。透過型電顕を用いた場合、奥に入り込んだような構造や、突出した構造は観察が難しい。まして殻表面の細かな起伏の観察は不可能である。このような場合レプリカ法を用いると、そのような構造を観察できる。これは、珪藻殻に金属を蒸着させ、その後殻のみをフッ化水素で溶かし、後に残った薄皮のような蒸着金属を観察するものである。しかしながら、レプリカ法は手順が面倒であるほか、電顕像もコントラストに欠けいま一つ物足りない。起伏のある構造や、表面構造の観察には何と言っても走査型電子顕微鏡による観察が一番効果的である。
走査型電子顕微鏡の発明
走査型電子顕微鏡(走査型電顕:SEM)の原理は、透過型電顕にさほど遅れをとらず、すでに1935年にクノル (M.Knoll)によって原理が示され、1938年にアールデンネ (V.Ardenne)によって試作されていた。しかし当時は透過型の開発に主力がおかれていたため走査型の発達は1960年代に入ってからであった。走査型電顕で珪藻殻を観察するための試料作りはいたって簡単である。すなわち珪藻を真鍮またはアルミでできた試料台の上に載せ乾燥させた後、金、金パラジウム、白金などで蒸着するだけで検鏡できるのである。
1960〜1970年代のSEMによる研究
1960年代の走査型電顕による研究は「新しい武器である走査型電顕で見た珪藻殻の立体像」というところに力点がおかれている報文が多かった。しかし1970年代になると珪藻植物全体を見渡し、その形態より系統をとらえるという試みがなされるようになってきた。1973年、シュレイダー (H.-J.Schrader) はさまざまな縦溝の種類を列挙し、1973年、ハスレー (G.R.Hasle) は縦溝の起源を多くの種の形態観察により唇状突起であろうと考え、また1977年コックス (E.J.Cox)は舟形珪藻類間での縦溝について考察を行っている。縦溝とは羽状類珪藻の多くの属にみられる殻を長軸方向に走るスリットのことで、この構造を持つ種類は基物に付着している時に移動(滑走運動)をする事ができる。さらに1979年、シムスとパッドク (P.A.Sims & T.B.B. Paddock) は舟形珪藻類の一部の属および種にみられる構造であるキャノピーと縦走管との系統的関係を考察している。上記論文のうちハスレーの仮説はその後1980年代になって細胞学的見地からも大いに支持を得ており、珪藻の系統進化において重要な研究であると言えよう。
1980年以降のSEMによる研究
1980年以降は走査型電顕からの結果に、透過型電顕や光顕からの結果を組み合わせ、さらに個体発生学の知見や細胞学的知見も取り入れて、珪藻植物全体の系統進化を探る試みが行われている。走査型電顕はこのように大きな流れを解析するための研究に用いられている一方、属の違い、あるいは属内の種の違いを明確にするために微細構造を観察するという研究方向にもますます使われてきている。今や光学顕微鏡のみの観察では珪藻の分類学は成り立たなくなってきている。この種の分類の研究では、多くの研究者がタイプ標本との比較を電子顕微鏡を用いて行うようになり、今まで曖昧であった種類の分類同定が確実に行えるようになってきている。