「バリアフリー」という「バリア」



 

 「バリアフリー」ということばがよく聞かれるようになった。

 障害を持つ人が日常生活を送る上で不利になるような「バリア(障壁)」をなくしていこうという考え方である。

 わかりやすい例では、車椅子に乗っている人が移動しやすいように、歩道の段差をなくしたり、階段にスロープ(坂道)をつけたりすることである。


 さらに最近では、「心のバリアフリー」ということばがよく聞かれるようになった。

 いくら段差をなくし、スロープをつけたとしても、障害を持つ人を受け入れない「心のバリア」を持った人が多ければ、障害を持った人が快適な日常生活を送るのは難しい。だから、心のバリアを取り除こう、という考え方である。

 しかし、この「心のバリア」は、なかなか厄介者である。


 「障害があるとか、無いとかは、関係ない」ということを強く意識する。そうした瞬間に「心のバリアフリー」という「心のバリア」が生まれてしまう。

 だが、障害についての無理解は本人が意識していなくてもしばしばバリアを作ってしまう。

 

 難しい問いです。答えは出ません。
 
 
 しかし、こうも考えられます。

 そもそも全ての人の間にはバリアが存在する。精神的にも、肉体的にも。ひとりひとりが違う存在だから。そう考えた方がいいのかもしれません。

 バリアの存在を直視した上で、バリアの向こうの、自分とは違う存在を好きになる。難しいようで、それが本当は自然なことのような気もします。

 「男」と「女」。「親」と「子ども」。「先生」と「生徒」。「上司」と「部下」。違う国に育った人。そして、「私」と「あなた」。などなど。

 同じ部分を持ちながらも、バリアは現実にお互いを隔てます。決して同じものにはなれないバリアの向こうの存在を大切に想うこと。それがとても自然で、とても美しい営みに感じます。

 バリアがあるからこそ、惹かれるのかもしれませんね。本当は。

 とても視聴率の高かった某ドラマを見て、ふとそんなことを思いました。


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