厳罰化は少年非行を減らせるか?





 少年によるショッキングな事件が相次ぎ、「少年(未成年)にも厳罰を」という声が高まっている。

 果たして、厳罰化は少年非行を減らすことができるのであろうか?

 重大事件を起こしてしまった少年の中には、「とにかくこの日常から抜け出したい」「自分の人生終わってしまえ!」「この世の中終わってしまえ!」と考えていたものも少なくない。

 実際、自殺をほのめかしたり、自殺を試みるものもいる。そのような少年にとって、厳罰化は犯罪を思いとどまらせる大きな力にはならないかもしれない。

 「この日常から解放されるのなら、長期にわたって身柄を拘束されても、死刑になってもかまわない」と考えている少年にとっては、たとえ成人なみの刑罰が与えられると知っていても、犯罪を実行してしまうかもしれない。

 アドラーは、「厳罰化は、犯罪者の犯罪に対するスリルを増すだけだ」とも述べている。

 それでは、厳罰化は少年非行を減らせないのであろうか?

 凶悪犯ばかりが目につくが、実際の少年非行で圧倒的に多いのが窃盗(万引きなど)や占有離脱物横領(盗難自転車の乗り捨てなど)である。

 これらの犯罪は、軽い気分で、ゲーム気分で行われることも多い。これらの犯罪に対する罰則が厳しくなれば、軽い気分で行われる犯罪が減る可能性はある。


 非行を減らすと言う意味とは別に、厳罰化には重要な意味がある。被害者やその家族の気持ちを考えるという点である。

 現代の日本では、犯罪に対し「個人で懲らしめる」「やられたらやりかえす」「仇討ちをする」ということを禁じ、それらの個人の権利を国が預かることで秩序を保ち、仕返しが新たな恨みを生まないようなバランスを保っている。

 個人が仕返しの権利を放棄し、国に権利を預けることでがまんできるのは、国が犯罪を起こしたものを適切に罰してくれるだろうという信頼によって成り立っている。

 国が適度な罰を犯罪者に与えないのであれば、被害者の不満や不信は高まり、個人での仕返しという思いが高まるかもしれない。


 厳罰化を求める声を聞いた少年たち自身は「大人は自分たちがそんなに信じられないのか」「大人は罰でしか自分たちをコントロールできないのか」という大人に対する不信感を強める危険性もある。

 厳罰化の問題は難しい。もし、「大人なみの罰」を少年たちに与えるのであれば、同時に「大人なみの権利」を少年たちに与える必要があると思われる。

 慎重にゆっくりと「大人なみの罰」と「大人なみの権利」を進めていく必要があるようだ。


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