何ヶ月か前に、久しぶりにミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだ。すごくおもしろかった。
人間のこころにとって、人と人との触れあいにおいて、「ゆったりとした時間」というものがいかに大切かを思い出した。
一見無用なようなのんびりと、ゆったりと流れる時間。これは他の何にも代えることのない最高級の宝物である。
ほぼ同じ時期に、「鉄腕Dash」というテレビ番組で、炭づくりに挑戦しているお話があった。
炭が焼けている釜の前で、火の番をしながらひたすら何時間も、何日も待ち続けるのである。ものすごく根気のいる作業でもある。
なぜか、このひたすら待ち続けるシーンが印象に残った。
思えば、ほんの数十年前までは、生活の中で、仕事の中で、何もしないでひたすらぼんやりと何かを待つという時間が自然にあったのではないか。
船に乗る人は、波や空を見ながら目的地に着くまでぼんやりと時間を過ごす。
作物を作る人も、緑や空を見て、鳥のさえずりを聞きながら、ぼんやりと休憩する時間があったであろう。
ものを作る人も、何かが乾いたり、かたまったりするまで、ぼんやりとする時間があったであろう。
それに比べて、今の私たちの生活はどうであろうか。
なにかぼんやりと、何もしないで過ごすというのは損しているような、もったいないような、罪悪感を感じるような気になってしまう。
いろいろな道具が発展しているから、あいている時間を埋めるものはいくらでもある。
通勤電車の中でも、音楽を聴いたり、メールを送ることもできる。仕事の間に、他の仕事をすることもできる。
本当にこれでいいのだろうか? おそらく良くないであろう。人間、そんなに急に進化することはできないはずである。
ぼんやりと何もしないで何かを待つ時間がなければ、どこかに無理がくるはずである。
それこそ「モモ」が指摘しているような問題が起こっている。
急に変えることはできないが、もっともっとぼんやりとする時間、なにかをただただ待つ時間を持ちたいと切に思う。
自分のためにも、周りの人のためにも。