なくならないいじめ

−現代道徳教育といじめとの関連−



A類学校教育3年 A98−2329 関谷 紳


第1章 本研究を始めるにあたって


第1節 はじめに


  そもそも,私がこのような研究を始めた理由は,実際に身近に起きたいじめがあったからである。それも身内の人間に…。私には何もすることはできなかったが,両親は学校と家を行ったり来たりで,とても忙しそうにしていたことを,今でも鮮明に覚えている。幸い,いじめの度合いも軽く,1ヶ月ほどの登校拒否の末,再び学校に復帰したのだが,この1件は,私といじめを結びつける,大きな要因となった。

 幸い,私自身が今までに在籍してきた学級では,いじめは起こらなかったと認識している。もしかしたら私の知らないところで何かあったのかもしれないが,少なくとも,記憶には残っていない。ふざけ合いやけんかはあっても,いじめと呼べるものはなかったはずだ。果たしてこれは,担任教師の学級経営が上手だったから,それだけの理由であろうか?だとすれば,学級経営能力に欠ける教師のクラスでは,いじめが起こってもしょうがない,という結論になりかねない。

 ではどうしたら…。そこで,私が着目したのが道徳教育である。(正しくは,道徳科教育と言ったほうが良いかもしれない。)この,子どもたちの心に真正面からぶつかっていける道徳を,有効的に使うことはできないだろうか,と考えたからだ。

 世間一般では,「いじめる側」の子どもは他人の心を察知することが出来ないのではないか,と思われがちだが,私はそうではないと思う。相手の受ける心の痛みを分かっているからこそ,相手を傷つけるためにいじめを起こしてしまうのではないだろうか。
そして,実際にそうであれば,心の痛みを理解できる子どもたちに心の教育を施すことで,少なからず状況は変わってくるのではないだろうか。この考えが,私の中でいじめと道徳教育とを強く結びつけたのである。

 「世の中からいじめがなくなってほしい」という願いは誰もが持っていることであろう。しかし,実際には多くのいじめが起こっている。起こってしまった後で理想論を述べても,それは何の意味も持たない。事前に対処できる方法があれば,また,いざ起こってしまった後でも何らかの形で以降の予防策が打てれば…。そんなことを考え,今回の研究を進めることを思いついた。


第2節 いじめの定義



 まず,「いじめ」を定義しておきたい(豊田;1997)。

これは,文部省が昭和60(1985)年10月25日付で示された定義(@〜B)と,翌年度に付け足された定義(C)である。

@ 自分より弱いものに対して一方的に,

A 身体的・心理的な攻撃を継続的に加え,

B 相手が深刻な苦痛を感じている。

C 学校がその事実を確認しているもの。

 一方,文部省の「児童生徒の問題行動に関する検討会議」(座長 間宮武共立女子大教授)が同じ年の6月28日,「いじめの問題の解決のためのアピール」の中で示した,次のような記述もあり,定義扱いされている。

  特定の児童生徒に対して継続的に長期にわたり陰湿残忍な方法で
 また,警視庁もこの時期に,「単独または複数の特定人に対して,身体への物理的攻撃のほか,言動によるおどし,いやがらせ,仲間はずれ,無視などの心理的圧迫を反復継続して加えること」という定義を,各都道府県警に出している。

 これらをまとめて,ポイントになる言葉をピックアップしてみると,「一方的である」こと,「継続的である」こと,「攻撃を受ける側が深刻な苦痛を感じている」こと,「学校の確認が必要である」こと,の4点が挙げられるであろう。ここで確認しておきたいのは,同じ攻撃があったとしても,被害者が「いじめられている」と言うか言わないかで,それはいじめになったり,そうでなくなってしまったりするということだ。そして,今から15年も前に制定された定義が,今なお使われている事実も見逃すことはできない。

 海外ではこんな定義もなされている。英国のPeter K. Smith & Sonia Sharp (1994)によると,「いじめとは,パワーの組織的・システマティックな乱用・悪用・誤用である。どのような社会集団であれ,強さやサイズ,能力,個性の強さや構成人数の差に起因した,あるいは公認された階層制に起因したパワー関係は常に存在するが,そういうパワーは,乱用することもできる。厳密に,何がパワーの乱用にあたるかという問題は,社会的あるいは文化的な背景に依存するが,パワーが乱用され得るという事実は,人間行動の研究においては,避けることのできない問題である。もし,パワーの乱用が組織的,つまり繰り返し意図的に行われるなら,その行為は『いじめ』と呼ぶにふさわしい。」とある。ここでいう「パワーの乱用」というのは,前述の「一方的である」ことに,「組織的」「繰り返し意図的に」というのは,前述の「継続的である」にあたる部分であろう。こうして比較して見てみると,いかに日本人がいじめを受け入れがたい民族かが分かるように思える。


第3節 道徳教育とは…


 次に,道徳教育のおかれている立場について触れてみようと思う(押谷,伊藤;1999)。

 学校教育法施行規則第24条の中で,「小学校の教育課程は,国語,算数,理科,社会,…(中略)…の各教科,道徳,特別活動並びに総合的な学習の時間によって編成するものとする。」とある。すなわち,道徳という教科は他の教科とは別枠の扱いになっているのである。

 また,小学校学習指導要領の中では,「道徳の時間においては…(中略)…各教科及び特別活動における道徳教育と密接な関連を図りながら,計画的,発展的な指導によってこれを補充,深化,統合し,児童の道徳的心情を豊かにし,道徳的判断力を高め,道徳的実践意欲と態度の向上を図ることを通して,道徳的実践力を育成するものとする。」とある。要は,道徳の時間は各教科及び特別活動を「補充,深化,統合」するという位置付けにあること,そしてその最終目的は「道徳的実践力の育成」にあることが記されているのである。

 以上から読み取ると,道徳教育というのは,学校でのあらゆる学習・活動に対してサポートできる位置付けにされていることが分かる。それと同時に,子どもたちの道徳的概念を高め,その実践力を高めようとする教科だといえるだろう。


第4節 本研究の目的



  第1節でも述べたが,私はいじめ問題に対して,道徳教育を有効的に使える方法があるのではないかと考える。その方法を探る原点として,本研究ではいじめの現状を捉え,現在行われている道徳教育の様子を,文献を通して探っていこうと思う。




第2章 いじめと道徳教育のつながり


 

 第1節 いじめの現状


 
 現在のいじめは,どのようなものなのだろうか。

 まずは,数字(発生件数)に着目してみたい(嶋ア;1997)。昭和60(1985)年度,いじめが原因とされる自殺が相次いだ年であるが,小学校で96457件,中学校で52819件,高等学校で5718件と,合計155066件のいじめが確認された。それから,年々減少傾向に入り,平成5(1993)年度には,全体で21598件と,最も多かった年の約7分の1まで減少した。ところがその後の調査では,「学校が事実を確認したものに限る」という限定が外されたこともあり,報告されているいじめの件数は増加している。これらの数字を発生率(全体の学校数に対してどれだけの学校でいじめが起きているか)と,1校あたりの発生件数に直してみると,昭和60年度の小学校での発生率が52.3%で,1校あたりの発生件数が3.9件。中学校ではそれぞれ68.8%と5.1件,高等学校では42.5%と1.3件で,全体では発生率55.6%,1校あたり3.9件ものいじめがあったと言える。一方で,最も少なかった平成5年度は,全体で発生率18.0%,1校あたり0.6件まで減少した。

 いじめを数字で見る上で,非常に興味深いデータとして,いじめの学年別・男女別の発生件数の比較がある。小学校では,学年が上がるにつれて発生件数も増加するが,男女間には大きな差は見られない。中学校では,学年が上がるにつれて発生件数は減少し,学年を増すごとに男子のいじめの割合が増加している。高等学校までいくと,学年ごとに発生件数は減少を続け,全体の3分の2以上のいじめは男子によるものである。
この現象は,いじめの態様にも関連がある。小学校では「冷やかし・からかい」が全体の3割近く,「仲間はずれ」が全体の2割前後を占めているが,中学校・高等学校に上がるにつれ,「暴力」や「言葉でのおどし」の割合が増加していく。特に高等学校では,「暴力」が全体の3割近くを占めており,男子によるいじめの割合の増加と大きく関係してくる。
 
 次に,現在のいじめの特徴を探ってみたい。ここでは,大きく5つのトピックに分けて話を進める。
まず1点目は,「いじめの多様化」である。「いじめは昔からあった」という場合,その対象の多くは,身体,容姿,性格,能力等の「個性」の中で,マイナス評価を受けがちな「特徴」であった。(これを「古典的いじめ」と呼ぶことにする。)それに対して,社会通念上ではプラス評価を受ける者が対象にされることがある。「美人」「スポーツが得意」「勉強ができる」「掃除をまじめにやる」「正義感が強い」などの事例がある。このようないじめが目立つようになったのは,昭和50年代後半の校内暴力多発期以降と考えられている。「正常集団」と「逸脱集団」の逆転化を経験したことで,プラス評価を受けるものをやゆ揶揄したり,集団で反発するのを許容する雰囲気が醸成されてしまったのである。(このようないじめを,「古典的いじめ」に対して「現代型いじめ」と呼ぶ。)学校のリーダーとして活躍する者,あるいは教師にそう期待される者がいじめの対象となることで,いじめられる者の幅は大きく広がった。誰もがいじめられるようになった,いわゆる「いじめの多様化」である。

 次に挙げられるトピックは「いじめ構造の複雑化」である。いじめを構造的に捉えた研究によると,いじめは「T.不適応状態の者が仲間を求めるいじめ,U.仲間同士の葛藤からくるいじめ,V.仲間うちで自分の優位性を誇示するいじめ,W.仲間の結束を図るためのいじめ,X.学級内の心情不安からくるいじめ」に分類されたという(東京都立教育研究所教育相談研究室『いじめ−いじめられの心理と構造に関する基礎的研究』1987)。また,集団の規模といじめている子どもの心理の二つの観点から類型化した研究では,「(1)個人による仲間求め・不安解消を背景にしたいじめ,(2)小集団における対抗意識や連帯感を背景にしたいじめ,(3)大集団における排斥感を背景にしたいじめ,(4)非行集団にみられるいじめ」に分類される(東京都立教育研究所『「いじめ問題」研究報告書』1996)。現在のいじめの特徴を明らかにするため,より単純化した分類を「いじめる側の集団所属」を観点に行うと,「単独のいじめ」(前述Tおよび(1)),「孤立者または別グループ所属者へのいじめ」(前述Xおよび(3)),「同一グループ内のいじめ」(前述U,V,W,および(2))の3類型に分けられる。こ の分類によって最近のいじめの構造を探ると,何層かの「いじめの構造」をもつ集団いじめとともに,同一グループ内での序列関係がはっきりしたいじめが特徴として挙げられる。

@ 孤立者または別グループ所属者への集団いじめ

 かつていじめの大部分を占め,現在でも深刻ないじめとなっているのが,多人数での特定人へのいじめである。肉体的・性格的・社会的に「弱点」とされることへの攻撃であり,学力や運動能力が劣ったり,体系・容姿に特徴のある子どもが対象にされやすい,いわゆる「古典的いじめ」と捉えることができる。

 いじめる側が時にはクラス全員ということもあり,いじめられる子どもはどこにも「逃げ場」がなく追い詰められていく。昭和50年代のいじめによる自殺事件では,「孤立しがちな性格,茶髪,斜頚,動作が遅い,きたない」などが攻撃対象とされ,尊い命が奪われている。

 クラスの大部分がいじめに加わる場合,そこには何層かの「いじめの重層構造」が形成されることは以前から知られているが,その構造がより複雑になってきたのが,現在のいじめを特徴づける一つの要素となっている。

 いじめへの明確な意思をもつリーダーのいるグループは,凝集性・排他性が高いことが多く,同じ集団に属するものは容易にいじめに加わっていく。ここに「積極的加害者」層が誕生する。このグループは他のグループに対しても「いじめの強制」をすることがあり,「消極的加害者」(周囲ではやしたてる等)または「傍観者」(みてみぬふりをする)が新たに生まれる。また,集団への影響力の少ないグループは,「いじめの強制」をされないため,「無関心層」を形成することになる。

A 同一グループ内のいじめ

 同一グループ内で一対一の葛藤関係が生じたとき,この二人を軸にグループ全体が「いじめ−いじめられ」関係に色分けされることがある。このような場合,グループ・ダイナミックスの変化に応じて,被害者と親和関係にあった者までもが容易に「消極的加害者」や「傍観者」へと変わったり,被害者が次々に変わる「いじめ対象の移動」や,被害者と加害者の立場が逆転する「いじめ対象の逆転」が起こることがある。

 いわゆる「仲良しグループ内のいじめ」は,校内暴力が激化した昭和50年代後半から目立ち始め,昭和60・61年,いじめにかかわる事件が多発したころには,各地の研修会等で続々報告された。当時,ある女子生徒が「次は誰がいじめられるかわかった」と言ったそうだが,まさに,このいじめの特徴をいいあてた言葉である。

 同じ「同一グループ内いじめ」でも,平成6年11月に発生した中学生自殺事件は,さらにいじめ問題の複雑さを示すものであった。周囲の者からは「仲間」とみられ,本人も「仲間といると楽しい,抜けたくない」と述べていた。確かに,「いじめられてでも仲間としていたい」という心理が働くこともあるが,最初からいじめの対象として仲間に迎えられ,離脱を図りたい気持ちと報復への恐怖心が混在し悩み抜くケースも少なくない。

 このような場合は,集団内の序列は最下位であり,「舎弟」「パシリ」などと,上位者の命令に服従させられる。しかも,「いじめられてなんかいないよ」という態度まで要求される。まさに,「集団所属と集団適応の偽装」が強要されるのである。これが「いじめ」の把握をむずかしくしている大きな要因となっている。
人前でおどけたりふざけたりする子どもが,残酷ないじめの被害にあった事件では,「笑顔の下に隠された絶望」を見抜けなかった教師の責任が問われたが、いじめ問題に取り組むときは,「いじめをいじめとみせない」無言の圧力の存在を見極める必要がありそうだ。
3点目として挙げられるのが「いじめ手段の深刻化」である。いじめ手段の深刻化は,「犯罪行為としてのいじめの増加」と「手段の陰湿化傾向」という,2つの側面から考察することができる。

@ 犯罪行為としてのいじめ

 さいきん報道される事例には,傷害(致死),暴行,脅迫,強要,恐喝といった刑法に抵触する事犯が多くみられる。もちろん,昭和55年に大阪でおきた20数万円の恐喝に苦しんだ中学1年生の自殺事件をはじめ,過去にも同様の事件は発生しているが,質と量において最近の状況は深刻である。

 平成6年11月の愛知県の中学生自殺事件では100万円以上の恐喝の事実が明らかになったが,翌12月に報道された恐喝事件だけにしぼっても,「中3の13人,おとなしい生徒から100万円以上脅し取る」「中2,脅され父のカードで100万円」「小5,金要求され計25万渡す」など,同様な事件が続発している。

 いじめに起因する事件の補導数は増加傾向にある。前述のような事例では,刑法上の責任が問われるだけでなく,「他人の権利を侵害した」として,不法行為の民事上の責任を負うことになる。

A いじめ手段の陰湿化

 いじめ手段の深刻化のもう一つの側面が「陰湿化」であるが,過去の事例にあたると,昨今のいじめがことさら陰湿化したとは思えない面もある。陰湿化が強調されるのは,報道される事例があまりにもセンセーショナルなこと,非行グループによるリンチ事件に「自制心」がみられないこと,いじめを原因とする自殺が多発していること等がその背景にあると考えられている。

 いじめの手段は報道されることにより「模倣」される例が,これまで数々報告されている。これは大きく「身体的攻撃」と「心理的攻撃」に分けられるが,ここでは「脅迫・強要を伴ういじめ」を別分類として整理してみる。


 T 肉体的苦痛を伴ういじめ

  態様のうち「暴力」,刑事事件としては「傷害」「暴行」に該当する。最近の事例では,痛みを与えることへの無知や集団の興奮作用のために傷害致死事件に発展することもあり,暴力のエスカレートぶりが懸念されている。

 いじめ手段として命名されたものでは,プロレス技を一方的にかける『プロレスごっこ』,前と後ろから体を押して失神させる『失神』,タバコの火を押し付ける『根性焼き』のほか,大人数で行う『カステラ』(円の真ん中にいじめられっこを立たせ,「カステラ一番……」と歌いながら,周りの者が蹴る),『ミッチェル』(3本の指で突っつく),『死刑』(石を投げつける),『サンドバッグ』(カーテンにくるんで,大勢で殴る),『たこ部屋遊び』『10秒ゲーム』等がある。

 U 心理的苦痛を伴ういじめ

  心に痛手を与えるいじめには,言葉による攻撃と集団からの排斥がある。このうち,「冷やかし・からかい」は,いわゆる「言葉による暴力」であり,主として身体的・性格的に『弱点』とされる点が攻撃される。それが『バイキン遊び』や『タッチ』という形で行われると,「仲間はずれ」としての要素が強くなってくる。

  「仲間はずれ」と「集団による無視」は,どちらも集団からの排斥である。花札の鹿がそっぽを向いているところから生まれたという『シカト』,「村八分」からの造語である『ハブ』(ムラハチ)などがこれに該当する。

  また,心理的苦痛の中でも,特に羞恥心への攻撃は受けるダメージが大きく,『実況放送』(用便の様子を大声で周囲のものに伝える)や『カイボー』(人前で裸にする),『茶巾ずし』(女子のスカートをたくし上げて,頭の上で裾と裾を結ぶ)などは,「人間としての尊厳」を傷つけるものである。このほか,歪められた星情報の氾濫に源を発する「性的いじめ」も深刻になっている。

V 脅迫・強要を伴ういじめ

 「使い走り」を語源とする『パシリ』,無理にけんかをさせる『シャモ』(タイマン),金品を巻き上げる『カツアゲ』などがここに分類される。態様では,「言葉でのおどし」「たかり」,刑事事件としては「脅迫」「強要」「恐喝」にあたる行為が入る。

 このような事案については,『いじめ問題に関する総合的な取り組みについて』(文部省,1996年7月)に明記されているように,「学校の指導の限界を超えるものとして,積極的に(警察との)連携が図られてよい」し,出席停止等の措置を検討する必要もある。

 4つ目のトピックは「いじめ問題の潜在化」である。これまで,各学校では悲惨ないじめ事件の教訓を基に,いじめへの認識を深めてきた。「いじめられるのは,『弱いもの』とは限らない」「仲間のようにみえても,それはイヤイヤながらのことがある」等は,いじめ発見のマニュアルに加えられた。しかし,いじめ発見の「決め手」は未だ見いだせてはいない。平成7年に起きた新潟県の中学生自殺事件では,この点についての議論がわき起こった。「恐喝・暴行等が日常的に行われていたわけではなく,いじめ抜かれた末の自殺ではない」との論評があった中,父親のコメントは印象的だった。「痛みの感じ方は人により目盛りが違う。ある人の痛みが一目盛り分でも,ある人はそれを三目盛り分に感じる」と。この言葉は,単にいじめに関する認識・知識を高めるだけでは,現在のいじめを把握することは困難である状況を浮き彫りにしている。一人一人の児童生徒の心の動きを敏感に察知することができる感性と,その基になる児童生徒理解の力量が求められているのである。

 最後に,「いじめ問題の拡散化」という点が挙げられる。いじめが他の問題へと拡散する傾向は,いじめの深刻化に伴い顕著になってきた。以下に,その中でも代表的なものを5つ挙げておきたい。

@ 自殺

 いじめを原因とする自殺は大きく報道されることが多く,社会問題として耳目を集めている。
 文部省発表の『生徒指導上の諸問題の現状と文部省の施策』では,平成7年度,いじめを主たる理由とする自殺は6件であった。自殺の決行を準備状態と直接動機という点から捉えると,どちらかにいじめがかかわっている事例は,もっと多くなると考えられる。

A 登校拒否

 『いじめに関する総合的な取組について』(文部省,1996年7月)の中では,「いじめられる児童生徒への弾力的運用」として,「緊急避難としての欠席」が第一に挙げられている。

 「脱学校論」にみられるように,登校拒否に対する意識は大きく変化している。加えて,この通知である。今後ますます,いじめに起因する登校拒否がふえていくことが懸念される。

B 仕返し事件――殺人・傷害

 いじめられる子が「がまんの限界を超え」,いじめる相手に立ち向かう場合がある。まさに「窮鼠猫を噛む」のたとえどおりで,昭和53年に滋賀県で起きた死傷事件や昭和59年の大阪高校生殺人事件が代表的な例になっている。二つとも,「いじめ―いじめられ」の関係がはっきりしていて,仕返し事件の多発とともに,この当時のいじめを特徴づけている。

C 心理的外傷体験

 いじめられた体験は,確実に「いつまでも心に残る苦い思い出」となる。いわゆる「心理的外傷(トラウマ)体験」である。これが原因でストレス,引きこもり,対人不信,強迫行動等が起こる可能性がある。この解決には,長期に及ぶカウンセリングや周囲の者のあたたかな接し方が必要になる。

D いじめをめぐる訴訟

 いじめを受けた側が裁判に訴える事例がふえている。いじめ相手の保護者に監督義務違反を問うだけでなく,学校(教師)に保護監督・指導対策・防止措置等の義務違反として損害賠償を求める訴訟である。教師にもリーガル・マインド(法的な考え方)が求められる情勢となっている。


 第2節 いじめと向かい合う学校


 
 海外の事例も多々報告されているが,ここではこれまでに日本国内で取り組まれてきた事例について扱うことにする。

@ 生徒たちの発案による生徒同士の相談活動「心の相談室・心の相談箱」

 T 概要

   「保健室で僕たちも相談にのれないだろうか」という生徒からの提案をきっかけに,保健室で中学校の生徒同士による相談活動が始まった。その後,手紙での相談活動も始まり,生徒が主体となって健康(心と体)を守りあうために仲間に働きかけ,生き生きとした広がりのある活動となってきた保健委員会の活動である。

 U 事態の経過

 提案のあった1年目,生徒たちは教育センター相談課の先生に相談し,海外で行われている仲間同士のピア・カウンセリングを紹介された。そこから,保健委員会の生徒が中心となって,「心の相談室」がスタートを切った。

 この初年度,相談を担当した生徒からは,「相手の身になって考えるのはむずかしい」「相談したあとで,あのアドバイスでよかったのかと思うことがあった」「大したことがないと思える悩みが,その人にとっては重大な意味をもつこともわかった」という感想も挙がった。どうやらこの時点では,相談室の効果と困難を同時に感じていたようだ。

  「手紙で相談したいという人がいる」「相談に直接来られない人でも,手紙なら相談できるので相談箱を置いたらどうだろう」と3年女子から意見が出され,話し合いの結果から,2年目に「心の相談箱」が設置された。具体的には,「相談箱は保健室前に置き,当番の人が毎日確認し,相談内容の返事は,委員会新聞「心の相談箱」(B5判)として全校生徒に配布する」ことに決まった。このような相談活動は「とどかない叫び―あなたも考えてください―」という,いじめをテーマにした保健委員会の壁新聞作り(各学級1枚掲示)にも広がり,生徒たちが相互にいじめ問題を考えるきっかけにもなりました。

 3年目,「保健委員以外のいろいろな意見も入れていきたい。保健委員のアドバイスよりもっといいものがあるかもしれない。保健委員のアドバイスに対する意見も聞きたい」ということから,全校生徒からの「アドバイス・プリーズ」カードを設置したり,専用ノートに相談やアドバイスを貼っていくアイデアも出された。

 子どもたちは語り合うことによって,自他の体験を通して学び,またお互いに学びあう楽しさを体験する。このことは,生徒がこれから生きていくために大変プラスになる体験だといえる。さらに,自分と仲間を通して自分の心を改めて見つめることや語り合うことは,生徒自身のもっている認識を新たにすることにもつながる。そして,友達を大切にする年齢だからこそ,教師が言うこと以上に子どもが言うことにインパクトがあり,そこに効果があるといえる。


A 集団不適応生徒に対するいじめに対応―学級集団に訴え続けて―

 T 概要

 中学3年時に父親の転勤で他県から転校してきたA男。たった1日過ごす中で,クラスの生徒たちに「変な転校生が来た」といううわさが広まった。さっそく前担任と連絡をとったところ,「言動にうそが多く,幼児性が抜けていない。言うことの半分は信用しないほうがよい。すぐに泣くがあとはケロッとしている。様々なトラブルで苦労した生徒である」とのことであった。

 多弁でうそが多く,運動能力・学力も極端に低く,体格も小さく,相手が傷つくようなことを平然と大声で言うものの,本人にはその意識がまったくないようであった。学級の生徒も彼の言動の不一致に振り回され相手にしないようにするが,それでもなおかつA男はかかわろうとするため,排他的雰囲気がクラス内に蔓延するようになった。

 そのうち攻撃的な制裁も多発するようになった(かばんへ落書き,物を隠す,暴言等)。加害者は,特定の生徒ではなくそのつどA男とかかわった生徒であったが,クラス全体がA男に対して強い嫌悪感を抱くようになった。A男は泣きながら担任に訴えてきたり,登校をしぶるようになった。

 U 事態の経過

 A男の両親は学校教育に協力的で「いつも息子がご迷惑をかけて申し訳ない」と低姿勢でしっかりした常識ももっていた。ある家庭訪問の際,「この子は,生まれるとき重い難産で,その後数回にわたって全国何ヶ所かで大手術を繰り返しました。長いときは半年くらい入院しました。この子に関しては,普通の家庭教育ができない状況でした」と打ち明けられた。人とのかかわりを望む半面,かかわり方を知らず,自分の表現のしかたも知らないことからくるアンバランスが,彼の行動の大きな原因と考えられた。

 それを踏まえた上で,担任教師は以下のような行動をとった。

 まずA男への対応としては,(1)承認欲求のために手段を選ばない(選べない)A男に対して,理論的に理解させることは難しいので,事件のたびに一つ一つのケースとして正しい正しくないを経験的に伝え,それを二人の約束にしていく,(2)リーダーシップをとる力や行事等で活躍する力は弱いので,日常の小さな仕事や先生方の手伝いを一生懸命やらせ,そのつどほめて励ます,というものである。

 学級経営(集団)における指導(いじめる生徒に対する指導)としては,(1)事があるたびに当人同士を呼んで,事実確認・謝罪(お互いに)という形で対応,(2)いじめた生徒だけを残して,A男を理解してほしい,A男の言動にも問題はあるが,だからといっていじめが認められてよいという論理は成り立たないと指導,(3)(半年ほどして,陰湿ないじめが出てきてから)帰りの学活で「今日A男がこんなことをされた。やった者は正直に申し出てほしい」と訴え,申し出た場合は,きっかけの言及と説諭を,申し出ない場合は犯人探しはせず,やられたときのA男の気持ちについての意見を学級の中で話し合う,といった方法をとった。

 事件が内向化しないためにも,職員会議の場でA男の様子を全職員に伝え,A男にはとにかく声をかけて,小さな手伝いでもいいからやらせて,できたらほめてほしい,と頼んだ。また,両親を追い詰めたり不安定な状態にさせたりすることは,事を悪化させるだけだと判断した。しかし,さすがに苦しかったらしく,担任に手紙を送ってきたこともあったという。
   


第3節 道徳教育の現状と学校の取り組み



 まずは,今日の日本の学校における道徳教育の現状を調べてみよう(押谷,伊藤;1999)。

 全国の小学校を対象にとったアンケート結果によると,道徳の時間が設置されている曜日は月曜日が12.9%,そのうち1時限目は31.2%である。また,土曜日に設置されている学級数は8.4%である。月曜の朝は,全校集会を計画する学校が多く,また土曜日は,週五日制の導入に伴い,変則的な授業になりがちである。週に一度しかなく,かつ全教育活動で取り組む道徳教育のかなめである道徳の時間を,わざわざこれらの曜日や時間におく必要はないであろう。

 また,標準年間授業時数を下回った学級にその理由を尋ねると,小学校では,「教科の指導に当てた」が28.5%,「学級活動に当てた」21.0%,「学校行事に当てた」が23.7%となっている。ここで大切なのは,特に特別活動の精選である。特別活動の内容を精選するとともに,各教科等に関連のある活動においては,各教科等の学習の中で取り上げる工夫も必要になる。また,生徒指導においても,その基本は,人間としての在り方や生き方の自覚である。道徳の時間を中心としながら,特別活動や各教科の特質を生かして指導を関連付けていくという姿勢が大切である。

 内容についてのアンケート結果も出ている。

 道徳の時間の授業においては,様々な改善が図られているが,特に個に応じた指導が重視されている。個に応じた指導を,どのように工夫しているかを尋ねた結果では,「一人一人が生き生きと主体的に参加する授業に配慮した」が最も多く,70.0%。また,道徳の時間の指導を充実させるために各教員に特に求められていることを尋ねた結果では,「児童生徒の実態や考えていることの的確な把握」が最も多く,64.7%。つぎに「資料の分析,選定および開発等の資料研究」が,47.1%である。学校現場においては,子どもの側に立つ道徳の授業について大きな関心をもち,積極的に取り組んでいるととらえられる。

 なお,道徳の時間を「楽しいと感じている」または「興味・関心をもっている」児童生徒がどの程度いると思うかを尋ねたアンケートでは,ほぼ全員と答えた学校は,学年段階が進むにつれて極端に少なくなる。しかし,半分以上だと答えた割合は,低学年97.7%,中学年97.1%,高学年85.1%。教師の働きかけによって,子どもたちが本来もっている道徳学習への興味・関心を一層伸ばすことができると感じているといえよう。

 道徳教育の中では,副読本などの多様な教材をどのように使うかも頭を抱えるところである。「道徳の授業で副読本を使用している」学校は97.0%,「児童生徒各自に副読本を持たせている」学校は,50.6%。そのうち,「公費で購入し無償で配布している」学校は,39.0%である。地方公共団体等における補助の確保とともに,各学校においても児童生徒に副読本を持たせるための工夫が望まれる。

 また,視聴覚教材など多様な教材の活用が大切である。今回の学習指導要領改訂に伴う標準教材品目の見直しにおいて,新たに道徳の項目が設けられ,ビデオテープ,TPシート,スライド,録音テープ,16ミリフィルム,掛け図,紙芝居が具体的な数値とともに示されている。

 道徳の時間の指導に関する教材を購入するに当たって,あらかじめ計画的に購入している学校は,61.2%となっている。標準教材品目に道徳が含められた効果が出てきているとはいいがたく,今後各教科等における教材の購入と同様に計画的に購入していくことが求められる。


第4節 いじめに対する道徳教育



  「いじめ」と「道徳教育」の結びつきを考えるに当たって,先に,小学校の道徳教育で求められている学習指導内容を見ておきたい(押谷,伊藤;1999)。

  T 第1学年および第2学年の内容

   @ 「主として自分自身に関すること。」

(1) 健康や安全に気を付け,物や金銭を大切にし,身の回りを整え,わがままをしないで,規則正しい生活をする。

(2) 自分がやらなければいけない勉強や仕事は,しっかりと行う。

(3) よいことと悪いことの区別をし,よいと思うことを進んで行う。

(4) うそをついたりごまかしたりしないで,素直に伸び伸びと生活する。

   A 「主として他人とのかかわりに関すること。」

(1) 気持ちのよいあいさつ,言葉遣い,動作などに心掛けて,明るく接する。

(2) 身近にいる幼い人や高齢者に温かい心で接し,親切にする。

(3) 友達と仲よくし,助け合う。

(4) 日ごろ世話になっている人々に感謝する。


   B 「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。」

(1) 身近な自然に親しみ,動植物に優しい心で接する。

(2) 生きることを喜び,生命を大切にする心をもつ。

(3) 美しいものに触れ,すがすがしい心をもつ。

   C 「主として集団や社会とのかかわりに関すること。」


(1) みんなが使うものを大切にし,約束やきまりを守る。

(2) 父母,祖父母を敬愛し,進んで家の手伝いなどをして,家族の役に立つ喜びを知る。

(3) 先生を敬愛し,学校の人々に親しんで,学級や学校の生活を楽しくする。

(4) 郷土の文化や生活に親しみ,愛着をもつ。


  U 第3学年及び第4学年の内容

   @ 「主として自分に関すること。」

(1) 自分でできることは自分でやり,節度のある生活をする。

(2) よく考えて行動し,過ちは素直に改める。

(3) 自分でやろうと決めたことは,粘り強くやり遂げる。

(4) 正しいと思うことは,勇気をもって行う。

(5) 正直に,明るい心で元気よく生活する。

   A 「主として他の人とのかかわりに関すること。」

(1) 礼儀の大切さを知り,だれに対しても真心をもって接する。

(2) 相手のことを思いやり,親切にする。

(3) 友達と互いに理解し,信頼し,助け合う。

(4) 生活を支えている人々や高齢者に,尊敬と感謝の気持ちをもって接する。

   B 「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。」

(1) 自然の素晴らしさや不思議さに感動し,自然や動植物を大切にする。

(2) 生命の尊さを感じ取り,生命あるものを大切にする。

(3) 美しいものや気高いものに感動する心をもつ。

    C 「主として集団や社会とのかかわりに関すること。」

(1) 約束や社会の決まりを守り,公徳心をもつ。

(2) 働くことの大切さを知り,進んで働く。

(3) 父母,祖父母を敬愛し,家族みんなで協力し合って楽しい家庭を作る。

(4) 先生や学校の人々を敬愛し,みんなで協力し合って楽しい学級をつくる。

(5) 郷土に文化と伝統を大切にし,郷土を愛する心をもつ。

(6) わが国の文化と伝統に親しみ,国を愛する心をもつとともに,外国の人々や文化に関心をもつ。

  V 第5学年及び第6学年の内容

   @ 「主として自分自身に関すること。」

(1) 生活を振り返り,節度を守り節制に心掛ける。

(2) より高い目標を立て,希望と勇気をもってくじけないで努力する。

(3) 自由を大切にし,規律ある行動をする。

(4) 誠実に,明るい心で楽しく生活する。

(5) 真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。

(6) 自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。

   A 「主として他の人とのかかわりに関すること。」

(1) 時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。

(2) だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。

(3) 互いに信頼し,学びあって友情を深め,男女仲よく協力し助け合う。

(4) 謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする。

(5) 日々の生活が人々の支えあいや助け合いで成り立っていることに感謝し,それにこたえる。

   B 「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。」

(1) 自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。

(2) 生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。

(3) 美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。

   C 「主として集団や社会とのかかわりに関すること。」

(1) 身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任      を果たす。

(2) 公聴心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。

(3) だれに対しても差別することや偏見をもつことなく公正,公平にし,正義の実現に努める。

(4) 働くことの意義を理解し,社会に奉仕する喜びを知って公共のために役に立つことをする。

(5) 父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。

(6) 先生や学校の人々への敬愛を深め,みんなで協力し合いよりよい校風を作る。

(7) 郷土やわが国の文化と伝統を大切にし,先人の努力を知り,郷土や国を愛する心をもつ。

(8) 外国の人々や文化を大切にする心をもち,日本人としての自覚を持って世界の人々と親善に努める。

   以上が道徳教育で求められているものだ。

 途中,太字で示したものは,いじめ問題に関連させられるものだと考えるものである。特にかかわりが深いと思われるものは,V−A−(2)・(3),V−C−(3)であろう。ここから読み取れることは,いじめに対しての直接的な教育方針・目標はないということ,また,特にかかわりが深い項目についても,高学年対象の内容として組み込まれていることである。

 いじめに対する道徳教育という点では,道徳の時間だけの指導では不十分であろう。しかし,第1章第3節で述べたとおり,道徳教育は他の教科教育や特別活動にも密接なかかわりをもっている。

 特別活動に関連させた次のような事例がある。

    @ 障害のある人を講師に招く「ふれあい集会」の取組み(宇治;1997)

     T 概要

 障害のある方々(視覚障害者,車椅子の生活者,聴覚障害者等)が学校へ出向き,児童や生徒,教員を対象に自分の生き様や訴えたいことを日頃の体験に基づいて話す活動が福祉講話である。福祉講話は全校生徒が体育館等,一同に会することができる場所に集まり,講師の講話を中心に実施する場合が多いようだが,A中学校では形態を工夫して,各クラスに1名の講師を招き,講話だけでなく趣味や特技を披露していただいたり,生徒とともに活動してもらう全校での取組みを「ふれあい集会」として実施している。

 ボランティア活動は,生徒の自主的な活動であることが重要である。生徒自身が自主的にまた組織的にボランティア活動に取り組めるように,生徒会組織内に「ふれあい委員会」を設置している,「ふれあい委員会」は,各クラス2名の「ふれあい委員」と生徒会役員2名から構成されている。「ふれあい委員会」では「ふれあい集会」を中心として「学童保育参加」「お年寄りとの交流」「ボランティア活動への参加」等を年間の活動として取り組んでいる。

   U 事後の活動と成果

 「ふれあい集会」のあと,文集作り(感想を書いたものを綴じて講師に贈るもの),福祉に対する意識調査の実施,ふれあい委員会の反省会が行われた。感想文の中には,「私にできるボランティア活動を捜して,積極的に取り組んでいきたい」「○○さんが最後におっしゃった,『波のある人生』つまり,苦しいことを乗り越えれば楽しいことがある,ということを胸に,これからの生活を送っていきたい」といった感想もあった。生徒一人一人が「何かをしたい」と考え始めていることがわかる。

  また,「ふれあい集会」では,生徒一人一人が講師と身近に接することができる。そのため,ただ受け身に講話を聞くだけでなく,ともに活動することができる。講師の生きている姿を目の当たりにすることで,生徒たちは障害のある人々と生きていくことの素晴らしさを実感することもできる

    A 自己有用感を高める係活動

     T 概要

 A教諭が受け持つ学級(小学校4年)では,児童がやる気をもち,生き生きとした学校生活を送れるように,学習時や給食時に活動するグループ(生活班)と,学校生活をうるおいのあるものとするためのグループを一緒にして活動させている。
 ここに至るまでの指導過程で,子どもの立場に立ってさまざまな工夫を行った結果,子どもたちは生き生きと活動し,係活動を楽しみにするようになった。トラブルが起こることもあるが,その解決を通して社会性や他人への思いやりなどを学ぶ機会と捉えて指導してきた。

 K男は「ちょっと変わった子」としていじめを受けたが,係活動で活躍するという役割体験を通して,友人関係を好転させる等大きく変容し,いじめの問題を解決した。

     U 成果

 グループという,心と心の出会いの場を設定することが,大きな意味をもった。子どもたちの学校生活を見ていると,対人関係にかなりの未熟さがあり,ちょっとしたことですぐにトラブルを起こす。文部省は昭和59年に,いじめの原因として対人関係の未熟さ,欲求不満の増大化,ストレスを発散する機会が乏しい,の3つを挙げているが,対人関係を親密にするためにも,子どもたちが学級で単に顔と顔を合わせている状態から,心と心が出会う機会と場を意図的に作っていく必要がある。

 さらにその中で,子どもたち一人一人に自己有用感を持たせ,生き生きとした学校生活を送れるように支援できたことが評価される。いじめなどの問題が起こった際には問題行動の中に光を見いだす努力が必要である。




第3章 まとめと考察


 

第1節 本研究の社会的役割



 本研究では,いじめ問題と道徳教育の現状を事例中心に見てきた。私が大きく勘違いしていたことは,「道徳教育のおかれている立場」である。今までの私の中では,「道徳教育=道徳の時間の授業」であったのだが,それは大きな間違いであった。各教科・特別活動に通じて,大きくかかわっていく教科,それが道徳教育なのだということを数々の事例を通して考えさせられたと思う。

 その中で,本研究のもつ意味をもう一度考え直してみたい。第2章第1節で見てきたとおり,いじめの件数は未だに減る傾向にはない。では,その状態に対して,現場の教員たちはいかなる工夫を投じているのであろうか。第2章第2節で見てきたような事例は,ごく一部で行われていることに過ぎない。そして,多くみられるのは「事後策」なのだ。ごく一部の教員による事後策だけでは,子どもたちは救われないのではなかろうか。

 道徳教育という,学校生活全般に大きな影響を及ぼす指導を通じて,いじめが起こる前に何とか手を打つことはできないのであろうか。「いじめ撲滅」を願う私にとって,そんなことを布石する研究として活用されれば光栄である。


第2節 今後の課題



 今後は,さらに論文研究を進めると同時に,実地研究として各種質問紙を用意し,小学校・中学校・高等学校での調査を進めていきたい。また,「どのような道徳教育が望まれ,どのような道徳教育が大きな効果を及ぼせるのか」という観点から,そのギャップを探り,理想を求める,より実践的な研究を進めていこうと思う。




参考文献



「道徳教育第443号」(明治図書,1996)

「新小学校教育課程講座<道徳>」押谷由夫・伊藤隆二(株式会社ぎょうせい,1999)

「いじめと取り組んだ学校」P.K.スミス・S.シャープ(ミネルヴァ書房,1996)

「学校教育相談の理論・実践事例集 いじめの解明」(第一法規出版,1997)

「世界のいじめ」森田洋司総監修(金子書房,1998)


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