子どもの善悪判断能力の発達について
      〜社会的ルール獲得の観点から〜



N類カウンセリング専攻3年
N00-5020 中村百合子




第1章 本研究の意義


第1節 はじめに 


近年、子どもによる犯罪が相次いでいる。犯罪は年々低年齢化し、その内容は子どもが引き起こしているとは信じ難いような凶悪かつ残虐なものが増えている。最終的には人を死に至らしめてしまうケースも多い。しかも、人を傷つけるという行為に対して、ほとんど罪の意識を持たず、反省する様子も見られない子どもも一部にいるようである。学校の中には依然としていじめの問題が存在している。また、授業中教室から勝手に出て行ってしまう、授業の妨害をするなど、学級崩壊も深刻な問題となっている。

社会の中で生活し、対人関係を円滑にするためには、社会的ルールを守らなければならない。しかし、このような最近の子どもたちの様子を見てみると、規則やルールを守ろうという意識が希薄になってきているように思われる。規則やルールとして決められていなくても、人間として、してはいけないことを判断することすら危うくなっている子どももいるのではないだろうか。また、キレやすく、すぐカッとなって暴力をふるうなど、自分の欲望のままに行動し、自分で自分自身をコントロールできないという子どもも増えているように思われる。
このような状況をくいとめるためには、子どもの社会的ルールの獲得の仕方などについて研究することが非常に重要なことだと考えられる。

第2節 社会的ルールの定義


 社会的ルールとはどのようなものなのだろうか。さまざまな定義があるが、ここではTuriel(1983)の説に則って論を進めていきたい。

 Turiel, E.(1983)は、社会的ルールを道徳(morality)に関するルールと、社会的慣習(social convention)に関するルールの二つに区別している。道徳に関するルールとは、ルールの逸脱が直接他者の福祉や権利に影響を与えるもので、社会的文脈によらず、またどの集団にも適用される普遍的なルールのことである。一方、社会的慣習に関するルールとは、ルール自体が恣意的で、善悪の規定的性質を有していないルールのことである。つまり、ある集団の条件に応じて作られたルールで、集団に参加している成員の相互作用を調整し組織を維持していく上で必要なものであり、集団場面での態度、社会的な習慣、校則、食事のマナー、目上の人の呼び方、服装などのルールがこれにあたる。

 Turiel(1983)によると、道徳と社会的慣習は、以下に挙げる五つの点で概念的に異なっているという。

@ 一般化可能性(generalizability)
道徳のルールは社会集団の相違に無関係に適用されるが、慣習のルールは特定の集団にだけ適用される。

A 規則随伴性(rule contingency)
慣習の違反はルールが存在するときだけ悪とされるが、道徳的違反はたとえルールがなくとも悪とされる。

B 文脈性(contextualism)
慣習のルールは社会的文脈に相対的であるが、道徳的ルールは絶対的である。

C 規則可変性(rule changeability)
慣習のルールは集団内のメンバーの合意により変更できるが、道徳的ルールは変更できない。

D 権威依存性(authority jurisdiction)
慣習のルールの施行については、集団内の権威者の力が強く大きい。


第3節 本研究の目的


最近の子どもたちは善いことと悪いことの判断ができなくなっているのではないかと言われている。そこで、本研究では、国内外における子どもの社会的ルールの獲得についての研究や、日本における最近の子どもの社会的ルールに対する意識を実際に調査した研究を概観することによって、子どもの善悪の判断について考察することを目的とする。


第2章 子どもの社会的ルールの獲得についての研究


第1節 道徳と社会的慣習


第1項 国外における研究

社会的ルールを、道徳に関するルールと社会的慣習に関するルールとに分ける考え方は、Turiel以外の研究者によっても検討されている。

Nucci, L.(1981)は、子どもや青年が、私的な領域のルール(「テレビは日曜日に見る」などの私的規則)や、社会的慣習に関するルール、道徳に関するルールを概念的に区別しているのかどうかについて研究している。7歳から20歳の子ども・青年を学年別に5段階(小学2年生、小学5年生、中学2年生、高校2年生、大学生)に分けて調査したところ、全ての段階の子ども・青年が、道徳に関するルールに違反することは、社会的慣習に関するルールに違反することよりも悪いことだと判断し、道徳に関するルールは、たとえ規則で決められていなくても守らなければならないルールであると考えていた。また、私的な領域のルールについては、本人の自由であり規則で決められるべきではないという考えを子どもや青年が持っているということが分かった。

Smetana, J. G.(1981)は、幼児の道徳に関するルールと社会的慣習に関するルールの区別について、ルール違反することがどれだけ悪いか(重大性)、ルールで決められていなければ違反してもよいか(規則随伴性)、他のプレスクールでは違反してもよいか(一般性)の観点から検討している。その結果、幼児は、道徳に関するルールの違反が、社会的慣習に関するルールの違反よりも悪く、罰を受けるに値するという判断をした。また、道徳的ルールは、規則の存在の有無や社会的文脈にかかわらず守らなくてはならないと判断した。
これらの研究は、子どもが社会的ルールを道徳に関するルールと社会的慣習に関するルールに分けて概念化しており、その分け方は大人と変わらないということ、また、道徳に関するルールの違反の意味、つまり、相手に危害を与えるという行為の意味が早期から理解されるということを示していると言える。

第2項 国内における研究

日本においても、道徳と社会的慣習についての研究がなされている。
二宮(1984, 1985)は、小学生、中学生を対象に、どのような社会的ルールを持っているのか、どの社会的ルールは絶対に守らなければならないと思っているのか、どの社会的ルールは破ってもしかたがないと思っているのかを調査した。

その結果、小学生のうちは学年が上がるにつれて獲得している社会的ルールの数や種類が増加するが、中学生になると学年による差はほとんど見られなかった。また、小学生では、絶対に守らなければならないルールと破ってもしかたがないルールが、各人によって異なっており、多くの者が共通してあげているものが少なかったのに対し、中学3年生では、約半数の者が絶対守るルールとして「嘘をつかない」という道徳的なルールを挙げていた。二宮は、社会的ルールの数、種類は小学生の間に増加し、その後はあまり増加しないと述べている。また、発達に伴って慣習に関するルールよりも道徳的なルールが重要視されてくると述べている。

首藤・岡島(1986)は、Smetanaの方法に従いながら、重大性、規則随伴性、権威依存性、規則可変性、一般性の基準を用いて、幼児から大学生までを対象に、子どもにおける道徳と慣習のルールの概念的区別を検討している。首藤・岡島は、幼児においては道徳と慣習とを概念的に区別しておらず、小学3年生頃に2つの領域を区別し始め、加齢とともにその区別は明確になると述べている。

二宮(1984, 1985)の研究や首藤・岡島(1986)の研究では、道徳と慣習の概念的区別ができるようになる時期がTurielの理論や従来の研究結果よりも遅いという結果となった。また、吉岡(1985)は、小学3年生から高校2年生までを対象に、年齢が上がるほど社会的慣習をはっきりと捉えるようになることを見出している。このような違いについて、首藤・岡島は、ルール違反に対する親・教師の反応など、環境との相互作用が日本と国外とで異なるからではないかと考えている。


第2節 道徳と社会的慣習の概念化の違い


 Turielは、道徳に関するルールと社会的慣習のルールが異なって概念化される理由として、環境との相互作用の質的な違いを挙げている。つまり、ルールの違反に際して、環境からの応答が異なるということである。子どもが社会的慣習に関するルールから逸脱した場合、主に親や教師などの大人からルールに従うように命令されることが多い。また、社会的慣習に関するルールには、学校では決められているが、家庭では自由にされているものもあり、社会的場面に相対的である。

しかし、道徳に関するルールからの逸脱は、暴力に象徴されるように、被害者の情緒的反応や報復を伴うことが多く、大人からの反応も被害者の気持ちを伝えるものが多い。そして、状況によっては緩和されるものの、常に罰せられる。このような他者からの反応の違いによって、子どもは年少のうちから社会的慣習に関するルールと道徳に関するルールとを概念的に区別していくとTurielは説明している。

NucciとTuriel(1978)は、社会的慣習に関するルールの違反と道徳に関するルールの違反とでは、周りからの反応が異なるという仮説を検証するために観察研究を行なっている。すると、社会的慣習に関するルールの違反に対するほとんどの反応は大人によるもの(叱責など)であったが、道徳に関するルールの違反に対する反応は、大人によるものと、被害者になった子どもによるものとがほぼ同数であり、大人による反応は被害者の気持ちを伝えるものであった。この研究の結果は、道徳と社会的慣習とで、環境との相互作用に質的な違いがあるという仮説を支持していると言える。


第3節 道徳と社会的慣習の概念の発達


 Turiel(1978)は、社会的慣習の概念は、肯定と否定を繰り返しながら、次の七つの段階を経て発達していくというモデルを提示している。

レベル1:慣習は社会的統一性を描写したものととらえられている〜慣習の肯定〜(6〜7歳)
 慣習は、みんなが同じような行動をするように決められたものと考えられており、社会的相互作用を円滑にするためのものとは理解していない。慣習を守ることは、行動の統一性が乱されるのを避けるためであると考えている。
例:「看護婦さんはほとんど女性である。もし男の子が看護婦になったら、服装や行動の点でそれまでの統一性を乱すことになる。」

レベル2:描写的な社会的統一性としての慣習の否定(8〜9歳)
 同じような行動をとることが慣習を守っていくのに大切なことであるとは考えない。慣習は恣意的なものであり、みんながするからといって必ずしもそうしなければならないとは考えない。このレベルの者は慣習の必要性を否定する。しかし、慣習が社会的相互作用を円滑にするための手段であると理解するまでには至っていない。
例:「看護婦になるのに男の子であるということは問題にならない。大きな病院には看護夫さんもいる。」

レベル3:規則を肯定し、慣習を肯定〜社会のシステムについての概念化の始まり〜(10〜11歳)
 慣習を恣意的で変更できるものと考えている。しかし、慣習にそって行動することは、具体的な規則や権威ある人の期待にそうものであると考えている。
例:「先生を呼び捨てにすることは間違っている。なぜなら、お父さんや校長先生が先生を呼び捨てにしてはならないと言ったから。」

レベル4:規則としての慣習の否定(12〜13歳)
 慣習は恣意的で変更できるものと考えている。慣習的にふるまうことが恣意的であるとすると、慣習的な行為についての規則や期待は妥当でないと主張する。
例:「名前は記号みたいなものだから、先生をそう呼ぶことは本人しだいだと思う。先生や他の人が、その本人が誰に話しかけているのか分かれば、全く問題ない。」

レベル5:社会のシステムに媒介された慣習の肯定(14〜16歳)
 社会的構造についての体系的な概念ができてくる。慣習は、社会という共通の概念によって媒介される共有の行動と考える。慣習は社会の統一性を保つための規範的な規制であり、必要であると考えるようになる。
例:「先生を呼び捨てにすることは間違っている。なぜなら、年長者に対して尊敬の念を持つべきだから。」

レベル6:社会の基準としての慣習の否定(17〜18歳)
 慣習は集団内に行動の統一性を与えるのに役立つ社会的な基準であると考える。つまり、慣習は社会からの期待以外の何ものでもないとみなしている。この点では、依然として慣習が社会的システムの一部であると見ている。しかし、このレベルでは、もはや慣習自体は、社会的システムが適切に機能するための必要な条件であるとは考えていない。個人の行動における多様性や変化は、社会的システムのまとまりと矛盾していないと見ている。
例:「ある集団内で服装がいろいろあっても、それは社会的システムのまとまりと矛盾しない。なぜ守らなくてはならないのか理由がわからない慣習は、時代遅れになっていると思われるので廃止したほうがよい。」

レベル7:慣習は社会的相互作用を円滑にするためにあると考え、慣習を肯定(18〜25歳)
 慣習の基本的な機能は、個人間の相互作用を円滑にすることであり、社会的システムの異なる部分を統合することであると考える。慣習は恣意的なものであるが、社会的システムのメンバーの特定な統一的な行為は、メンバーの間で一致したものであり、共有の行動様式である。統一的なこれらの諸行動の目的は、相互作用を円滑にすることであり、それによって社会的システムの働きを促進することである。慣習は、社会的システムの中で共有されている規範、一般的知識に基づいていると考えている。
例:「私は慣習的であると思っている方法で先生に呼びかける。もし、私が慣習的でないことをしたら、私は先生に、なぜ慣習的でないことをするか説明しなければならないだろう。慣習は物事を円滑にするためにある。また、きわめて一貫した理解できるコミュニケーションなのである。」


 以上のように、Turielは、社会的慣習の概念が肯定と否定を繰り返しながら発達していくと述べている。そして、道徳の概念の発達は、公正の原理がだんだん慣習から分化していく過程であり、社会の慣習への同調から、自己が受け入れている自律的、原理的な道徳的思考の状態へ進んでいくと考えている。つまり、発達の低いレベルでは、道徳と慣習は分化しておらず、同じような規範的意味を持っているが、高いレベルでは道徳と慣習の二つが分化し、規範として別々の役割を発揮するということである。


第4節 国内における子どもの社会的ルールに対する意識の現状


 最近の子どもたちの社会的ルールに対する意識についても調査がなされている。

 秦(2000)は、福岡県内の小・中・高校生を対象に、子どもたちの規範意識の実態と、規範意識に関連する非行・問題行動の発生状況、およびこれに走る理由について検討している。「子どもだけで夜遊び」「万引き」「学校のものをわざとこわす」「親・祖父母をなぐる」「暴走行為」「シンナー」「無免許運転」など、学校で禁止されている行為や様々な非行・問題行動について、「絶対にしてはいけない」「できるだけしないほうがよい」「これくらいならしてよい」という選択肢によって子どもに判断させた。

すると、全ての問題行動において、「絶対にしてはいけない」と判断する割合が小・中・高校生の順に低くなっているという結果が得られた。例えば、「無免許運転」は、中学生では81.1%が絶対にしてはいけないと答えているが、高校生では48.2%と、ほぼ半減してしまっている。つまり、年齢が上がるにつれて規範意識が緩やかになっているということである。

また、昭和58年に調査した子どもの規範意識と、現在の子どもの規範意識とを比較すると、小・中・高校生のすべてにおいて昭和58年の調査よりも現在の方が「絶対にしてはいけない」と答える子どもの割合が減少しているという結果も出ている。このことから、子どもたちの規範意識が以前よりも低下してきていることが分かる。

また、秦(2000)は、さまざまな非行・問題行動をおこした子どもたちに対して、その理由も調査している。理由として「欲求充足のため」「特別な理由はない」「興味本位」「正当化」などが挙げられたが、特に、小・中・高校生のすべてにおいて、最も高い割合を占めている理由は「欲求充足のため」であった。「…したかったから。」「なんとなく。」などの表現が小・中・高校生ともに多く見られる。秦は、子どもたちが非行・問題行動をおこすことについてそれほど罪悪感や抵抗感をもっておらず、善悪の判断をする基準がまったく身に付いていないことを指摘している。

 久世ほか(1988)は、青年の社会意識(社会事象に対する判断や評価)を規範意識と私生活主義という2つの側面からとらえるなかで、大学生の規範意識についても検討している。ここでは、規範意識は「多くの者によって共有されている価値基準と、その実現のためにとられるべき行為の様式が内面化されたもの」と定義され、私生活主義は「@自分自身と身近な事象への関心・社会的事象への無関心、A自分の感覚や実感の重視」の2つに分けて定義されている。

大学生1210名を対象に、規範意識および私生活主義の概念定義したがって作成された項目について、「非常に賛成」(5点)〜「非常に反対」(1点)までの5段階で評定させた。得点が高いことはその意識や態度が強いことを示している。因子分析の結果、3因子が抽出され、3つの下位尺度が構成された。第一尺度が「規範意識」、第二尺度が「身近な事象への関心・社会的事象への無関心」、第三尺度が「自分の感覚や実感の重視」であった。各下位尺度の得点の平均値は第三尺度「自分の感覚や実感の重視」が最も高かった。久世らは、現代青年の特徴として、規範意識よりも自分の感覚や実感を重視するということが挙げられると述べている。

第3章 まとめと全体的考察


 これまでの研究から、子どもは、親や教師、身の周りの子どもなど、環境との相互作用によって社会的ルールを道徳と社会的慣習とに分けて概念化し、善悪の判断能力を身に付けていくということが明らかになった。子どもは、絶対に守らなければならない道徳に関するルールを獲得し、肯定と否定を繰り返しながら社会的慣習に関するルールを人間関係を円滑にするものとして獲得していく。この過程が問題なく行なわれれば、子どもの善悪の判断能力は正常に育つと考えられる。

しかし、第2章の第4節で述べたように、最近の子どもの軌範意識は低くなってきており、非行・問題行動に対する罪悪感がほとんどなくなってきている。自分の感覚や実感を重視する者が増え、他人に対して配慮できない者も多い。最近の子どもは、社会的ルールの獲得過程が何らかの要因によって妨げられ、善悪の判断能力の発達が未熟なのではないだろうか。

今までの研究は、子どもの社会的ルールの獲得過程そのものについての研究が多く、実際に規範意識の低い子どもや、問題行動をおこす子どもが、社会的ルールの獲得過程のなかでどの位置にいるのか、善悪の判断能力の発達の程度はどのくらいなのかということについての研究は、少ないように思われる。規範意識の高い子どもと、低い子どもとで、社会的ルールの獲得過程にどのような違いがあるのか、また、どのような要因が善悪の判断能力の発達の妨げになり、どのような要因が発達を促すのかについて検討することは今後の課題と言えると思われる。また、善悪の判断能力の発達において、共感性の発達や、自分の感情をコントロールする自制心の発達などの観点から検討することも必要であると思われる。

引用文献


・ 秦政春 2000 子どもたちの規範意識と非行・問題行動 大阪大学人間科学部紀要 26 Pp.125-155

・ 久世敏雄・和田実・鄭暁斉・浅野敬子・後藤宗理・二宮克美・宮沢秀次・宗方比佐子・内山伊知郎・平石賢二・大野久 1988 現代青年の規範意識と私生活主義について 名古屋大学教育学部紀要 35 Pp.21-28

・ 二宮克美 1984 小学生の社会的ルールに対する意識 日本心理学会第四八回発表論文集 Pp.569

・ 二宮克美 1985 中学生の社会的ルールに対する意識 日本心理学会第四九回発表論文集 Pp.672

・ Nucci, L. P & Turiel, E 1978 Social interactions and the development of social concepts in preschool children. Child Development, 49, Pp.400-407

・ Nucci, L. 1981 Conceptions of personal issues: A domain distinct from moral or societal concepts. Child Development, 52, Pp.114-121

・ 大西文行(編) 1991 新・児童心理学講座9 道徳性と規範意識の発達 金子書房

・ Smetana, J. G. 1981 Preschool children's conceptions of moral and social rules. Child Development, 52, Pp.1333-1336

・ 首藤敏元・岡島京子 1986 子どもの社会的ルール概念 筑波大学心理学研究 8, Pp.87-98

・ 吉岡昌紀 1985 道徳と対立する社会的慣習の是認に関する実験的研究〜Turielらによる規範の二文法の再検討 日本教育心理学会第二七回総会発表論文集 Pp.106-107



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