2005年平成17年度  
       東京学芸大学附属世田谷小学校
       
算数研究部






 
 
 本校算数部歴史的紹介
 2000年代も5年目になり、平成の世は17年目になりました。本校は、昨年からの国立大学法人化にともない、国立大学法人・東京学芸大学附属世田谷小学校と、教育学部がとれた正式名称になりました。歴史的には今年度で創立130年目という節目を迎えます。創立130周年記念大運動会を始め、いくつもの学校行事等に「130周年記念」がつきます。まずはじめに、130周年という学校の歴史を簡単に振り返りながら、算数研究部の小史からはじめましょう。
 本校は、明治9年、1876年、東京府小学校師範学校附属小学校として開校しました。90周年や100周年の時に刊行された記念誌や当時の記録によりますと、附属小学校発足当時、授業法研究として「直観から概念へ」という研究テーマを掲げ、ペスタロッチ教育法を具現化する取り組みがいくつもなされました。その一つの教科研究部として、記念すべき明治9年4月には、本校発足と同時に算術研究部が発足しております。ですから、「算数研究部」(発足時は「算術研究部」)も創立130周年記念となるわけです。
 その当時、算術研究部では、「加減九九図」「形体線図」などの教図を利用した「問答」教授法が提案されておりました。問答を通して算術の知識と技能を身につけ、しかも思考力も育てるという、今現在でも充分通じる実践研究が、発足当時にはもうすでにスタートしていたようです。
 その後、明治時代には、本校は、東京府師範学校附属小学校、東京府青山師範学校附属小学校、と名前を変えながら、校内研究が深まり始めました。とくに、ヘルバルト主義による教授法の研究が盛んになってきました。校内研究の動向をふまえて算術研究部も、五段階教授法による指導法の研究が中心になりました。算術教授細目を明らかにしたり、新しい単元構成を提案したりしていました。いわば、「育てたい力を明確にした授業実践とその創造」といったことが、当時から研究対象として研究、実践されてきたということなのです。
 また、特筆すべきは、かけ算九九の指導法として、「乗法総九九」の研究を開始し、全校にその指導法を採用し、明治43年には全国に紹介したことです。大正元年、1912年には、「国定算術教材及び教授法の研究」を編纂し、発行しました。「マジメ」を校訓として制定し、学校教育の中心目標にした時代でした。明治時代後半においては、本附属小学校が、東京青山師範学校、「あおし」の附属小学校として、全国の初等教育界のリーダーとして注目されていた時代といえましょう。そういう意味では、これからの附属小学校のあり方を模索する現代にとって一番学ばなければならない歴史かもしれません。
 大正時代にはいると、ご承知のように我が国の教育界では自由主義的教育思潮が一世を風靡しました。本校でも「直観科」や「自習時間」が特設され、とくに算術研究部では、数や図形に対する直観を磨く指導法が研究されました。そして、広く全国にその研究発表がなされ、全国の初等教育実践に影響を与えました。
 昭和初期においても、この自由主義的教育思潮のもと、「児童を本位として教授法の研究」が推進されました。算術研究部では、毎年のように「算術科教授細目」が編纂、発行され、児童本位の算術指導のあり方が議論されました。児童本位の算術学習の理論と実践が全国へ発信されました。とくに、昭和6年には、「低学年における綜合的取り扱い」の発表がなされ、児童の生活に即した算術指導法が提案されていきました。
 もう既にこの時代に「総合的」という文言が出てくることには驚きます。しかし、驚くのはこの一つや二つではないのです。本校の歴史を調べれば調べるほど、いつの時代も先験的な視点でビジョンを持った実践研究がなされてきたことがわかるからです。平成の時代に創設された「生活科」や「総合的な学習の時間」の誕生を、その当時から予告していたようなものです。
 その後、昭和11年、1936年に、本校は、青山の地から下馬の地(現在の附属高等学校のお隣「放送大学東京学習センター」として現存使用されている校舎)へと移転しました。すばらしい近代的な校舎になり、校名も、東京第一師範学校附属小学校と輝かしい名称になりました。ますます、我が国の「第一」として、初等教育のリーダー的な地位を確立してまいりました。
 しかしながら、時代は流れ、国民学校令下、皇民錬成教育の指針を明確にしていく時代になりました。算術研究部も「わかること」に国民教育研究の中心がおかれた研究のみをせざるを得なくなりました。時局の逼迫に従い、本校算数研究部の歴史のなかでも算数研究が一番萎縮した時期といえましょう。
 昭和20年終戦。大東亜戦争敗戦後、民主的新教育に関する研究が始まると、本校は、東京学芸大学附属世田谷小学校と改称され、「調停の理論」に基づいた「よい授業」のあり方を追究し始めました。「思考力・表現力・実践力・社会性をのばす学習指導」をテーマにし、「内面化をめざす学習指導」の研究が始まりました。算数研究部は、いわゆる「数学的な考え方」を重点目標にした指導のあり方の研究を展開しました。昭和27年には、文部省実験学校研究発表会を開催し、算数研究部では「問題解決学習における評価の基準とその展開」についてまとめました。その後、「思考力を伸ばすよい授業」の研究を進め、現在も脈々と流れる「数学的な考え方」を育てるよい授業の追究精神の基盤がこの時代にできあがりました。
 昭和32年世田谷区下馬から世田谷区深沢へ移転し、「内面化をめざす学習指導の研究」から、「現代化をめざした教育経営」へと校内研究も移ってまいりました。算数研究部でも、昭和40年代の「算数教育現代化」に見合った教材と指導法の研究が盛んに行われました。
 その後、本校校内研究は、昭和41年から46年(1971年)までの「本質化をめざした学習指導」の研究、53年(1978年)までの「子どもが生き教師も生きる○の時間」の研究、昭和59年(1984年)までの、「人間性豊かな子どもを育てる教育課程の創造」の研究、平成元年(1989年)までの「相互啓発的学習観によるよい授業」の研究、そして平成7年(1995年)までの「自ら生活を作り上げる子どもを育てる教育課程の創造」の研究と、進んでまいりました。
 算数研究部では、校内研究全体の進行を見据えて、算数教育の重点であります「『数学的な考え方』を育てる指導のあり方」を継続的に進めてまいりました。昭和40年からの現代40年間は、「創造する算数」を主張された花村郁雄先生、「子どものつまずき」の研究の金子功先生、のお二人の大先輩を筆頭に、多くの諸先輩によって「数学的な考え方」を重点目標にした算数教育研究が引き継がれてまいりました。東京都武蔵野市をはじめとして東京都内外で広くご活躍された楠本善之助先生、元東京都算数教育研究会会長で、昭和50年代後半「相互啓発」を提案され本校研究をリードされた、前港区立赤羽小学校校長松山武士先生、海外帰国子女教育でも活躍された成蹊学園の桂雄二郎先生、若き算数数学教育学者で現在山梨大学でご活躍中の中村享史先生、そして米国の大学等で算数数学教育の「Jyugyoukennkyu」の世界的第一人者として国際的にご活躍中の高橋昭彦先生、そして昨年度まで本校校内研究を引っ引っ張り、今年度より青森県の弘前大学へご栄転された中野博之先生、これらの8名の本校算数研究部ご出身の先生方とともに、今現在も日本の、いや世界の算数数学教育の発展に、日夜取り組んでおります。
 
本校算数部員紹介
 今年度の現在の本校算数研究部員は2名になってしまいました。黒澤俊二(くろさわ・しゅんじ)と、今年度4月に参りました・大野 桂(おおの・けい)です。どうぞ、よろしくお願いいたします。なお、中野博之は前述のように弘前大学教育学部へ転勤し、野間佳世は家庭の都合で休職中となりました。お二人にたいする今までのご支援に深く感謝申し上げます。今後もどうぞよろしくお願いいたします。
 黒澤俊二は、昭和56年に東京都練馬区から本校にまいりま
して、今年度でなんと25年目を迎えます。練馬での5年間を
加えますと、小学校教師30周年記念となります。
 今年度2年生を担任しております。昨年度まで、第1学年、
第2学年そして第4学年と、このところ低・中学年部を担任し
ております。今まで本校では高学年担任が多かったのですが、
今さらのように低中学年の大切さを知らされ、多くの人たちに
支えられてきたことを知り感謝の毎日です。
 練馬区にいたころからの算数教育と関わってきて30年間をふり返り、いっこうに進まない「数学的な考え方」を育てることに重点を置いた算数教育実践に憤りといらだちを感じています。山の陰に隠れてしまった、あるいは、山の向こうに捨てられてしまったような、「数学的な考え方」を引き戻すために、残り少ない自分に何ができるか、寸時を惜しんで慌ただしく駆けめぐっております。体力はレベルダウンしているものの、いたって健康、30年間、病気による欠勤ゼロ(残念ながら無遅刻は無知告)を更新中です。子どもたちのすばらしい発言やノートの記述を楽しんで、いや、愉しんでおります。すばらしい子どもの授業中の発言や操作を見逃さずに、瞬時に評価できる俊二でいようと、今年度もはりきっております。
 大野 桂は、今年度4月、東京都港区港陽中学校数学教師か
ら本校にまいりました。若さがいっぱい、背の高い頑張り屋
です。私立高等学校、東京都公立中学校を経て今年度より本
校にまいりました。高校、中学、そして今度は小学校と、数
学教育の実践研究の原点にやってきたという感じで、わくわ
くしております。それも、何と小学校1年生の担任です。高
校や中学校ではバスケットボール部の顧問をしていた背の高
い私にとっては、何と可愛らしい子どもたちでしょう。私と
同じ1年生ということで、見るもの聞くものすべてはじめて、
お互いに暗中模索のなか、新たな学級での生活をスタートさ
せました。「まず考える」という学級経営をベースにしながら、考える楽しさを味わう算数授業づくりに従事しています。この伝統ある世田谷小学校の算数研究部での学びを積み重ねていく充実感を味わう毎日です。どうぞよろしくお願いいたします。
 
 今年度平成17年度の算数研究部運営方針
 
(1) 学習指導要領の教科目標について
@ 国の「最低基準」としての学習指導要領 算数科目標の再確認

 「数量や図形についての算数的活動を通して、基礎的な知識と技能を身に付け、
 日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考える能力を育てるとともに、
 活動の楽しさや 数理的な処理のよさに気付き、進んで生活に生かそうとする態
 度を育てる。」
 
  キーワード:算数的活動、基礎的・基本的な知識と技能、見通し、筋道を立てて考え        る、楽しさ、よさ、生活
A 学習指導要領 算数科目標の構造
  ●育てる二つのこと(能力と態度)
   ア)見通しをもち筋道を立てて考える能力
    ・いわゆる「直観力」と「論理的思考力」を意味している。
    ・「直力」は「直力」ではなく、無意識に個に内在している何らかの論理に     もとづいてでてくる「気付き」であり、それを意識化する働きをするのが「論     理的な思考力や表現力」である。
   イ)進んで生活に生かそうとする態度
    ・算数科でいう「生活」とは、地域や家庭での生活だけではなく、教室での学習     活動をも含むと解説されている。すなわち、授業のなか既習事項や既往経験を、     例えば「発展」的に生かすといったことをも意味している。
・また、「進んで」という文言に、子どもの主体性、「自ら課題をつかみ…」と いった、いわゆる「生きる力」の育成を意味している。
  
 
  ●何によって二つのこと(能力と態度)を育てるのか







 
 


 

基礎的な知識と技能を身に付けること
 

によって
 


 

見通しをもち筋道を立てて考える能力を育てること
 


 
 







 







 
 





 

活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付くこと
 

によって
 

進んで生活に生かそうとする態度を育てること
 


 
 
  ●どんな場面を通して二つのこと(能力と態度)を育てるのか


 

数量や図形についての算数的活動を通して
 
   「算数的活動」とは、例えば紙を折ったりする「具体的な操作活動」(手作業)等   の「外的な」目に見える活動と、統合的発展的に考えるといった「内的な」思考活   動も意味すると解説されている。
 
 
(2) 国の目標に対する本校算数研究部の解釈
 以上のような、国の算数教育の「最低基準」となる目標を、以下のように解釈する。
@「筋道立てて考える」力を育てることが重点目標である。
  ア)「筋道立てて考える」力は、国際化、高度情報化といった「社会の変化」に対応す   るために、そして、「人間性豊かな」共にこれからの社会を生きるために、欠くべ   からざる資質である。
  イ)「筋道立てて考える」力は、子どもが「なぜならば」と根拠となる理由をそえて物   事を判断する力であり、「なぜかというと」「〜だから」といった接続詞を遣った表   現のなかに読みとることができる。
  ウ)「筋道立てて考える」力は、算数科の数や図形に関する「知識や技能を(帰納的に)   身につけ」、獲得した知識を(演繹的に)活用していく「算数的活動」の過程で効   果的に育てることができる。
  エ)「筋道立てて考える」力は、「算数的活動」のなかでうまれた「気付き」をはっき   りさせ、より簡潔に、より明確に、そしてより統合されたものを求めることになり、   結果的には理解する「愉しさ」を得させる。
  オ)「筋道立てて考える」力は、より簡潔に、より明確に、より統合されたものに価値   を置く「発展的・統合的」な見方、いわゆる「数学的な考え方」を育て、民主的で   公正な生き方までも精神的に陶冶していく。
A そのために、子どもが自ら問い、より簡潔、より明確、より統合されたものを求め  る「算数的活動」を仕組む。
  ア)「算数的活動」とは、知識獲得・技能定着を目指した、より簡潔、より明確、より   統合されたものを、子どもが創造的・主体的に求める、手作業から思考への操作活   動の連続である。
 
  イ)「算数的活動」は、はじめは教師の「課題」提示からはじまるにしても、だんだん   と、子どもが提示された「課題」に働きかけ、自ら「問い」「問題」としていくこ   とによって進んでいく問題解決の「活動」である。
  ウ)問題解決の「算数的活動」だけではなく、「筋道立てて考える力」を生む素になる   帰納的に獲得した、基礎的・基本的な知識と技能を、演繹的に生活に生かすことが   できるように、基本的・基礎的知識と技能を発展的補充的に習熟していく「算数的   活動」も必要となってくる。
 
(3) 本校の算数授業で育てたい力                    
@ 本校算数研究部としての重点目標
  ・そこで、本校算数科では「筋道立てて考える力」を育てたい。そして、平成10年  度から新しい学習指導要領をふまえて以下のような実践研究テーマを設定している。
  実践研究テーマ  
「筋道立てて考える力」(論理的思考力)を育てる算数指導
 
A「筋道たてて考える力」(論理的思考力)の解釈
 ア)「筋道立てて考える力」(論理的思考)とは何か
  子どもが根拠となる理由をそえて物事を判断する力
 イ)「筋道立てて考える力」(論理的思考)をもった具体的な子ども像(具体的な目標)
  理由としての根拠を「なぜかというと」といったことばとともにそえて、命題「Aは Bである」を表現する子ども………『理由を表現する子ども』


 

根拠(帰納的に見つけたことや演繹的に使えるきまり)
 


 
             「だから」    「なぜかというと」


 
 

 
  である。
 
 ウ)理由としての「根拠」に何をもってきたか、その根拠の質が問われることになる。  根拠として、みんなで確認した、いわゆる「きまり」と呼ばれる定義や性質が帰納的  に見つけられたり、演繹的に活用されていく能力が「考える能力」であり、その態度  が「生活に生かす態度」である。
 
B 重点目標達成「筋道たてて考える力」(論理的思考力)育成の方策  
 ア)さらなる具体的な目指す子ども像を明確にすること。…学年学級での目標の明確化
  ・どのような学習場面で、どのようなことを根拠にして、理由をどのように表現する   のか、子どもの事実から目標を具現化していく。
 イ)筋道を立てて考えることが子どもにとっての問題となるような、単元学習のはじめ  に提示する課題を開発すること……導入課題の精選化
  ・筋道立てて考えることが求められる、子どもの問いが起き、子どもたちの問題とな   るような単元導入時に提示される課題を開発し、よりよい課題をつくっていく。
 ウ)筋道を立てて考え知識を獲得し、知識を生かしていく子どもの学習の連続を記述す  ること。………知識獲得の構造化・カリキュラム化
  ・筋道立てて獲得した知識技能を、生きて働くものとして活用し、さらなる知識技能   を獲得していく学習履歴からの指導計画作成とカリキュラム評価
 エ)子どもの筋道立てて考える姿を収集し解釈し調整する教師と子どもの評価能力を高  めること。……発問、学習感想文読みとり、板書など評価活動の簡便化
  ・「なぜかというと」「〜だから」といった言葉遣いを契機としながら、子どもが表現   した理由としての根拠を評価しその能力や態度を指導していく力量を身につけ高め   ていく。
 オ)評価結果を保存し蓄積し、再生できるようにしておくこと。……評価活動の日常化  と学級文化形成(「筋の素」の保存再生化)
  ・評価と指導によって得られた子どもの表現や態度を蓄積し、学級の文化として継続   的に定着させていく。









 
 




 

子どもが
もっている
知識・技能
 

 




 

 新しい
知識・技能
 の獲得
 




 




 
⇒⇒

 

 
 
 


 

筋道立てて考える(論理的思考)
 


 
 
 
(4) 平成17年度の 算数部研究テーマ
  上記の重点テーマ「筋道たてて考える力」を育てることをもとに、今年度より算数部
  では、

 

 自ら問い、数学の有用性に気づく算数授業の実践
 
  を新たな研究テーマとして設定した。
@ 数学の有用性とは
   数学の有用性を3つの点から解釈することとする。
  ア)日常生活の有用性
  イ)数学の内容が持つ有用性
A 授業実践案
   自ら問い、数学の有用性に気づく算数授業の実践
        〜5の有用性から〜
            提案者:東京学芸大学附属世田谷小学校 教諭 大野
 
  1はじめに
   小学校1年生の「10までの数」「いくつといくつ」等の学習は5に着目し指導することが通例  である。どの教科書も「10までの数」は5といくつという考えで指導している、「いくつといく  つ」では、最初に扱っているのはやはり5の分解・合成である。「なんばんめ」でも最初は5であ  る。それは、5という数には有用性があるからである。
   ここで5の有用性について考えたい。有用性には2つの面がある。ひとつは日常生活の面での  有用性、もうひとつは数学の面での有用性である。 
  日常生活での5の有用性とは、区切りがいい、人間が視覚で数をとらえ認知する際に5が容易  である、形が綺麗等がある。例えば、「出席簿の区切り」、「教室の座席(縦)」、「正の字の数え方」、  「片手の指の本数」等は、区切りがいい、認知しやすい等の有用性がある。また「サッカーボー  ルの構成要素(五角形)」「星型(正五角形)」「トランプやサイコロの5」等、形の上でも5は綺  麗であり認知しやすいという有用性である。
   数学の面での5の有用性は10の半分としての5である。つまり、既習事項の5から10を構  成する有用性である。上記で述べたが5という数は、日常生活に多数存在し、また、美しい形を  なす。そのような数が十進位取り記数法の基本集合10の半分、5をひとまとまりとして5と5で  10として考えることで、十進位取り記数法の理解とよさの気づきの基礎となる。
   また10までの数の基準を1ではなく5として扱うことで10までの数を減法的考え方と加法的  考え方の2つの面から見ることが出来る。5以下の数は1と4で5、235という5の合成  ・分解による理解、言い換えるなら5よりいくつ小さいという減法的な考えによる理解。また5  以上の数は516538という5の加法的な考えで理解ができるのである。減法・加  法的な考えの両面から10までの数を扱ったほうがいい理由は、加法より減法が苦手な子どもが多  いが、これは10までの数を1を基準とすることで、加法的考え方のみで学習することとなる。  減るという体験をしてから「引き算」を学習するのとしないとでは演算の理解に大きな差が出る。  生活とは生産(加法)より、消費(減法)が常である。日頃から減法に触れさせることが大切で  ある。
   このように、5には日常的・数学的な有用性があるのだが、教科書では5という数に着目して  いながら、その有用性を意識されなく十進位取り記数法の基本集合10に移行している。そこで、  本研究では5の有用性に気づく授業を提案したい。
  2研究の内容
 1年生で次の4つのことを取り入れ、5の有用性に気づかせたい。
  @日常生活の中での5
 まず教室の5探しや、生活の中での5探し等を授業に取り入れ、日常生活には5があふれて いる事に気づかせる。
  A図形という中での5
  碁石のようなものを5つ渡して、子供たちのアイデアで好きなように並ばせることで、正五 角形(星型)、直線に並べる、サイコロの5のように並べる、W型(等脚台形)等様々考えられ る。これをさせることで形の上での5、言い換えれば視覚的な5も日常生活には多く取り入れ られていることに気づかせる。
  B日常生活の有用性
    なぜこんなに5が日常生活に溢れているのかを考えさせる。まとめやすい、見やすい、数え   やすい、形が綺麗等様々な意見が出ることが予想されるが、教師側からも「正の字の数え方」「星   型」等を提示したり、視覚的認知の容易さを体験を通して味わわせる。
  C数学の有用性
   5の構成要素(例えば235523532)を考えさせることで5までの数を減法・加法的両面から構成していく。
  次に6以上の数を合成・分解して構成していく。前時までの考えを用い、例えば6=5+1と想起させ、10=5+5に帰着させ、5は10の半分であるという事に気づかせる。
   次に、510の半分であるという事(5と5で10)をさらに深めるために、例えば、12とい   う集団を、5・5・2という集団に分け数を構成していく体験をさせることで5と5で10と   いう理解を深めさせ、合理性・統合性から十進位取り記数法に帰着させたい。
   3実践
   単元名 「いくつといくつ」
   単元目標
   ・10までの数の構成を理解し、数を多面的にとらえる事が出来る。
  本時の目標
 ・5までの数について、分解・合成が出来る。
 ・5を基準として、5以下の数は減法的な考えで表現できることに気づく。
 ・5を基準として、5以上の数については加法的な考えを用い、5といくつで何と表現できる事 に気づく。
(・5は10の半分(5と5で10)に気づく。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 今年度平成17年度の研究授業案内
 
(1)第11回世田谷算数授業討論会…………未定
  ■同じ単元の授業を二つ公開し、比較検討する、「世田谷算数授業討論会」。今年度で   第11回を迎えます。昨年度は、東京都私立小学校算数研究部との合同研究会とし   て、3年生の「わり算」の導入のあるべき姿をめぐって討論しました。今年度は現   在日程を調整中です。詳細は近日中にホームページに掲載します。
 
(2)第6回世田谷算数夏期セミナー………平成17年8月24日(水)
  ■毎年夏休み中に授業研究をする「世田谷算数夏期セミナー」。今回も、指導案検討   から授業実践、そしてその協議会まで、一日かけて算数の授業づくりを共同で行い   ます。もちろん、実際に附属小学校の児童とともに授業もします。夏期セミナーは   今回で6回目を迎えます。今年も是非、充実した会にしようと準備を進めておりま   す。是非夏の研修の1つにご利用下さい。なお、今回も、世田谷区教育委員会から
   ご後支援をいただき、世田谷区の研修として位置づけていただきました。もちろん、   世田谷区立小学校以外の先生方にも公開しております。是非お出かけください。
   
(3)附属世田谷小学校「授業研究会」平成17年11月11日(土曜日)
  ■ 詳細は近日中に公開いたします。
 
 
 宣伝資料:黒澤俊二の最近の拙書
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     
  
                               
 
 資料:黒澤俊二の最近の雑文

(資料1)
 


 
   「関心・意欲・態度」の評価を
       どのようにしたらよいか     
 
1.評価の「内容」「意味」「方法」が問われる。
 算数授業だけではなく、評価について決まって質問される事柄が「『関心・意欲・態度』の評価をどのようにしたらよいか」ということである。「興味・関心」とか「関心・意欲」とか「関心・意欲・態度」が指導要録を賑わした、昭和50年代に大騒ぎをしたことを記憶している。あれから、もう30年以上が経つというのに、いまだにその「問い」や「問題」が寄せられる。
 「関心・意欲・態度の評価はどのようにするの?」という問いには、いくつかの下位の問いが含まれている。それは以下の三つである。

問1:「関心・意欲・態度」とは何か。具体的に、子どものどのような姿を、「関心・
   意欲・態度」の内容とすればよいのか。
問2:「評価する」とはどういうことか。授業中に、学期末や年度末に何をすること
   か、具体的に「評価する」とはどういう意味なのか。
問3:「どのようにするか」ということは、教師が子どもを他者評価する仕方もあれ
   ば、子どもどうしの相互評価や、自己評価の仕方もある。とくに教師として
   子どもを他者評価する方法としてどのような方法があるのか。
 
 以上のような三つの問いに答えるだけで一冊の本ができるぐらいの分量だ。そこを何とかコンパクトに、かつ具体的に答えてみる。指導要録で筆頭に掲げられている意義を踏まえ、「関心・意欲・態度」の評価の内容・意味・方法をできるだけ子どもの姿が見える具体的な姿で述べる。具体的でないと評価と指導が一般化しないからである。
 
2.「関心・意欲・態度」とは心の様相にある。
 まずはじめに「問1」からはじめよう。そもそも「関心・意欲・態度」とは何なのか。
 字義から、「関心」とは「算数にひかれる心」であり、「意欲」とは「進んで算数に取り組もうとする、はりきった心」である。
 「態度」は、一般的には「でかい態度だ」とか、「態度に表れる」などといったように、「考えたことや感じたことを表情や動作としてあらわれた様子」を意味する。しかし、心理学的には「態度」は「心の準備態」ととらえる。すなわち、あらわれた様子ではなく「心のもちかた」だ。「道徳的実践力」と同じで、いわば「算数的実践力」だ。
 例えば、「もっと簡潔な計算の仕方にならないか」、「もっとはっきりとした理由はないか」、「同じきまりががあるから同じ形式にできないか」といった行動を起こす心である。このような行動を起こそうとする心を育てることの重要性は、これからの創造の時代には欠かすことができない。
 しかし、「心」を育てる重要性はわかるが、「心」はそう簡単に他者に見えるものではない。そのような見えにくい子どもの心のなかのものを、評価することができるのだろうか。不安になってくる。
 そこで、その不安を解消するために「関心・意欲・態度」の特性を五つあげてみる。その特性を利用し、何とか子どもの心にある「関心・意欲・態度」を評価と指導の対象としていこう。
 一つ目は主体性である。当然のことである。何かに「ひかれる」、何かに「はりきる」、何かを「しようとする」のは、やらされるのではなく自らすることである。心は常に自動詞なのである。
 二つ目は焦点性である。何に対して「ひかれ」「はりきり」「〜しようとしている」のか,関心・意欲・態度の対象が焦点化されているのが一般的である。特定のものを対象にするのである。
 三つ目は傾向性である。心はある一定期間は同じ状態を保つ。日常の生活においても、一定の傾向がある。担任しているその子は、何に興味関心があり、何をしようとはりきっているのか、そして、どのようにしようとしているのか。ある一定期間はある傾向性をもっている。その傾向性をよりよい傾向性へと向かわせることになる。すなわち、「いつも」そうなのか、「だいたい」そうなのか、「めったに」そうではないのか、といった程度を見極めよりよい傾向へと指導していく。
 四つ目は変容性である。傾向性をよりよい方向へ導いていくことからわかるように、「関心・意欲・態度」は傾向性を帯びながらも変容していく。「関心・意欲・態度」は、心の性格的なものだからといって、必ずしも固定的ではない。すなわち、教育できるということである。
 であるから、前提として、数学的な価値に教育的価値を認め、それが教育すべき善であると信じる。そして、社会的な相互作用のなかで、文化を継承し創造していく活動のなかで、数学という価値に沿った「関心・意欲・態度」を変容させていかなければならない。それが算数教育の目的だ。
 例えば、子どもが「日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考える」ように、あるいは、「活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付」くように、数量や図形に対して、より「関心」のある、より「意欲」のある、そして数学的に考えるよりよい「態度」の形成をねらうのだ。「基礎的な知識と技能を身に付け」、その過程を通して思考力を育成しながら、「関心・意欲・態度」を育てる。これが算数教育の重点目標なのである。
 五つ目は融合性である。「関心・意欲・態度」は、子どもの心のなかの項目であるから、第三者にとって直接には見えない。しかし、まったくわからないのではない。子どもの知識や技能を活用する姿のなかに、知識や技能に融合されたものとして、「関心・意欲・態度」が間接的にみえてくる。例えば、計算の仕方を考え、その際にその仕方の理由や、その他の仕方や、発展的に他の場面を考える。根拠となる理由をはっきりさせながら図形の名前や性質を判断する。筆算や作図を手順やきまりに従って実行する。そういう行動のなかに、「関心・意欲・態度」は見えてくる。すなわち、「〜ができる」といった、知識や技能の行動に融合されて、「〜に気付く」「〜しようとする」「さらに〜しようとする」という心の様相がみえてくる。この様相に「関心・意欲・態度」がある。
 算数の「関心・意欲・態度」とは、数量や図形に対して、ひかれて、はりきって、何かをしようとする「心」である。その心は、傾向性を持ちつつ変容していく。その変容は、行動として表れた様相のなかにみることができるのだ。
 
3.「評価する」とは目標に向けた計画立てだ
 知識や技能を活用する様相のなかに、算数の「関心・意欲・態度」とらえ、よりよい方向へと導いていくために、次に「評価する」意味を考える。 「評価する」とは、一般的には二つの意味がある。ひとつは、国語辞書的な意味で、「もののねうちや価格をきめること」である。教育の世界でいうならば、教育の成果を成績として決めることである。もうひとつは、教育学や教育心理学的な意味で、「情報を収集して、解釈して、調整を図ること」である。一言でいうならば、「フィードバックすること」(調整を図ること)である。
 学校での「評価する」場面でもこの二つの意味に従って「評価する」というと言葉がつかわれる。 「評価する」というと「通知表をつける」とか「テストする」といった行為をイメージするのは、前者の国語辞書的な意味合いからだ。そこには、「選別する」「区別する」といった機能や目的が見えてくる。であるから、「関心・意欲・態度」を評価するというと、その程度を学年末などにどのようにランク付け(例えば指導要録で何を基準にどのように記号化)するか、という意味になる。
 もう一つの意味、すなわち教育を目的にしたときの「フィードバック(調整を図る)」からすると、子どもの現在の「関心・意欲・態度」の様相をとらえ、よりよく育てるには、何をどのように子どもに返していけばいいのかということになる。教育の場面では「評価する」とは、教育効果を最大にするという願いをもって、子どもを励まし、「育ち」という発達を求めつつ「設計すること」であるからだ。前述のように、「関心・意欲・態度」は、よりよい方向へと変容する傾向性のある心の様相である。であるから、そのよりよい方向へと、調整を図って、次の指導を設計していくのが、「評価する」ということである。
 この第二の意味で、どのように「評価する」かを考えるときに重要になってくるのは、「よりよい方向」とは何かである。すなわち、目標としてどのような「関心・意欲・態度」を目指していけばよいのかという、目標の明確化である。具体的には、担任している子どもたちには、今現在どのような様相があり、授業後にはどのような様相になればいいのかという明確化である。
 
4.目標を明確にし、「しぐさ」を収集せよ
 そこで、ここではまずは、評価の第二の意味である「フィードバック」に従って、次の指導に生かす授業における評価の仕方を考える。そして、その蓄積の結果としてどのように評定するか、第一の評価の意味である評定方法をとらえてみる。
 「関心・意欲・態度」を育てる授業における評価活動の方法を具体的な事例でとらえてみよう。
 4年生の子どもたちが、「52÷4」といった、二けたの整数を一けたの整数でわる計算の仕方を考えた。以下のような仕方が出てきた。
 少なくともこの5名は、計算の仕方に「ひかれる心」があり、「進んで計算の仕方を考えようとはりきる心」があり、実際に「計算の仕方を考え出そうとした」結果が見られた。
 この子どもたちの反応に、例えば、これらの計算の仕方を板書上に指導者が丁寧に取り上げる。そして、「えりこさんのこの線が分けたか合わせることがわかりやすくていいね。」などと教師がある子どもの関心・意欲・態度に対して価値付け、よさを薦めていく。これ












 
  あきら  




 
  いちろう  




 
  うめこ  





 
52は40と12
 40÷4=10
 12÷4=3
 10+3=13
 
4×10=40
4×11=44
4×12=48
4×13=52
 
 4×10=40
   10
52−40=12
12÷4=3 
10+3=13
 
  えりこ              
52  2
    50  32
20  30
20÷4=5
32÷4=8 13
 





 
  おさむ  







 

 13    13    13    13●●●●  ●●●● ●●●●  ●●●●
●●●   ●●●  ●●●   ●●●
●●●   ●●●  ●●●   ●●●
●●●   ●●●  ●●●   ●●●

 


 
 
 
が教師が子どもへフィードバックする他者評価である。また、子どもどうしで、5人の計
算の仕方についての「52を分けたところが共通しているね」などとといいところを話し合いよりよい仕方を見いだしていくのが子どもの主体的な相互評価である。
 理想的には子どもたちの対話の中で、一人の子どもが思いついた計算の「仕方」を、よさを見いだしながら計算の「方法」へと一般化していく相互評価のある学習過程が重要である。その過程を通して、よりよい「関心・意欲・態度」や「数学的な考え方」を育てることができるからである。 いずれにしろ、子どものしぐさを、本時の目標に照らして、板書などによって「取り上げ」「価値付け」「薦めていく」といったフィードバックの具体的な行為が評価方法である。そのほかの評価方法として、ノートやワークシートにコメントを記すといった方法もある。じっくり価値付けて子どもに返していける点でコメントの記述は有効である。いずれにしろ、子どもの主体的で、焦点化した、傾向性をよみとり、よりよい傾向性へと薦めていくわけであるから、日常的で継続できる簡便な評価方法がいい。板書が一番簡便切である。
 それらの折々の授業での記録、例えば板書記録の蓄積が通知票や要録への評定のための資料となる。例えば、ABCの三段階に「関心・意欲・態度」を評定する際には、それらの蓄積からとくに優れたAと、とくに指導を要するCの児童を判断していく。その判断に必要になってくるのが「きじゅん」である。はじめに設定されている評価規準を、具体的な子どもの姿から判断基準をつくって評定する。規準から基準を見いだしていく、その繰り返しのなかで、評定作業は慣れていく。
 そのためにも、どのような「関心・意欲・態度」を目標にしているのかという、目標を具体的に子どもの姿にしていく目標の明確化が欠かせない。子どもの「しぐさ」まで予想し目標に織り込めると評価しやすい。「しぐさ」には、表面にあらわれた草のような「仕草」もあれば、その原因や理由になっている種にあたる「仕種」もある。抽象的な目標表現を、子どもの姿「しぐさ」までに具体化させていくことがポイントである。

(資料2)
 


 
  まずは、育てたい「考え方」を
     具体的な子どもの姿で表そう
   「考える力」を育てる教材開発にかかせない目標の明確化
 
                   東京学芸大学附属世田谷小学校
                            黒 澤 俊 二
 
1.「算数」は何のためにあるのか
 担任している4年生のY子さんが、はじめて児童会の代表委員会に出席した。我が学級の代表委員が欠席し、その代役を引き受けたのだ。元気に教室を出ていったY子さん、20分後とても疲れた様子で帰ってきた。
 「どうだった。」
 話しかけてみた。
 「S先生が『わかりましたか』とか、聞いてきて困ったけど、平気な顔し  て『わかりました』って答えた。それで、はやく終わると思ったから。」
 「それで、聞かれたことについて分かったの?」
 「あまりよくわからなかったよ。」
 担任の私の前では素直に自分をさらけ出してくれている。このことが担任としてはとても嬉しかった。
 それと同時に、子どもってそういうものだと思った。いや、子どもばかりではない。我々大人も含めて、人間ってそういうものだと思った。「そういうもの」というのは、人間は、自分の置かれた状況をとらえ、考え、学び、何とか与えられた状況のなかで生きていくもの、ということだ。とくに、素直な子どもには、そのような「状況をとらえた学び」が顕著にみられる。
 ところで、算数の授業での子どもの学びはどうだろう。
 算数の授業のなかでも、子どもたちは、教師の意図に反して、別の状況を把握して、他のことを考えているかもしれない。算数の授業でも、「わかりましたか?」と問えば、多くの子どもたちは「わかりました」と答える。ほんとうにわかった子どもばかりだろうか。きっと、よくわからずにいる子どももいる。あまりよくわからず、一応「わかりました」と言っておけば逃れることができるのでは、と考える子どももいる。
 そのような「状況をとらえて学ぶ」子ども、そのなかでも算数から逃れようとする子どもがいることがわかると、ひとつの疑問が出てくる。算数という教科を、無理矢理ではないが、意図的に子どもたちに学習させることは、そんなに重要なことなのだろうか、という疑問だ。別の問い方をすれば、そもそも、算数の授業とは、何を学ばせる教科であろうか、という疑問だ。
 そこで、「算数数学離れ」や、学校での「算数数学学習の時間と内容の削減」、といった昨今の状況もふまえて、算数授業の目的を考えてみた。
 まずはじめに思いつくのが、「基礎的な知識獲得と技能習熟のため」という目的である。算数の授業では、目に見える結果として、いわゆる「基礎的な知識と技能を身に付け」ることがひとつの目的であり内容である。数量や図形に関する「基礎的な知識と技能を身に付け」ることは、子どもたちにやがてやってくる近未来の生活を送るうえで、かなり必要である。
 例えば、第2学年終了時には、かけ算九九が暗記されていなければならない。また、第3学年では正方形と長方形、第4学年では正三角形と二等辺三角形、といった図形についてその定義や性質を覚えていなければならない。第5学年までには小数の四則計算ができ、第6学年では、分数の四則計算ができるようになっていなければならない。
 と、いくつかあげていくとわかるように、算数という教科では、子どもたちに身につけてほしい「基礎的な知識と技能」が、かなり具体的で、事細かに規定されている。目標がとても明確なのである。学習指導要領を見ても、これほどまでに具体的に目標が明確に掲げられている教科はない。
 そこで、算数ほど教えやすいものはないということになる。教えることが細かく具体的に規定されているから、それをうまく伝達すればよいのではないか、と考えられるからだ。
 しかし、だからといって、「教科書○○ページを開きなさい。」「〜を写しなさい。」「〜を読みなさい」と、的確な指示を機関銃のように教師が発する状況のなかで、子どもをほめあげて効率よく「基礎的な知識と技能」を注入していくだけでいいのだろうか。それのみが「学力向上」であろうか。
 慌ててはいけない。教師が的確な指示を発して子どもをほめて効率よく指導するということが、すべていけないことであるなどといっているのではない。そうしなければならない、必要に応じた注入的な指導場面はいくらでもある。教えるべきときは、教えるべきことを、きちんと教えるのである。きちんと教えることを効果的にうまくやれば、その効果はもちろん大きい。それ故、そのような効率よく一斉に実施する指導技術は、専門家としてきちんと身につけるべきである。教師の専門的な仕事として当たり前のことである。
 
2.算数の授業は「考える力」を育てるためにある
 しかし、もっと当たり前のことがある。子どもに的確な指示ばかりを発し、子どもに考える余裕を与えないような状況下で、注入的に指導することが算数授業のすべてではないということだ。つねに教師の指示のママに子どもが動き、その結果 基礎的な知識と技能を身に付けていく、それでは算数授業とは言えない。なぜならば、算数の授業をはじめとして教科学習では、指示通りにだけに動きながら知識と技能を身に付ける人間を育てるのではないからだ。そうではなく、創造的で、主体的で、判断力や思考力を持った人間を育ていくのである。算数科の授業もそういう人間教育の一端を担うのだ。
 何も「人間教育」などと大きな教育目標まで戻らなくてよい。現行の指導要領においても、ただ単に、基礎的な知識と技能を身に付けることだけを求めていない。算数科の目標では、「算数的活動を通して基礎的な知識と技能を身に付ける」と、「算数的活動」という教育方法までも挙げている。
 「算数的活動」とは「活動」、文字通り、子どもが「活き活きと動く」主体的な活動である。嫌々やらされるものではない。さらに、「算数的活動を通して」とは、手作業などの具体的な操作活動から思考活動へという、思考を通してということなのだ。考える余裕もなく「教師の一方的な指示活動を通して」基礎的な知識と技能を身に付けるのではないのである。次々テンポよく教師から指示が飛ばされ、それに子どもが従っていくということのみでは、「考える力を伸ばす」ことから遠のいていく。それこそ、「わかったふりをする子ども」「わかたふりをすればその場は終わると考える子ども」そういう妙な「生きる力」?を育てることになりかねない。子どもは状況をとらえて考えていくからである。
 「考える」とは「考えさせられる」ことではなく、主体的に自ら考えることである。「考えなさい」といわれて「考える」のは、「考える」ではない。何も策を取らずに「考えろ」と、われわれ教員が子どもに指示をだしても、子どもは困ったような顔をして、考えるふりをしているだけである。そういう身近な子どもの事実を一番よく知っているのは、われわれ教員ではないか。「考えなさい」と指示ばかりを与えていると、子どもはそういう状況のなかで、うまく学ばないことをうまく学んでしまうのではあるまいか。
 文部科学省のスローガンを挙げるまでもなく、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる。」ことの一端を、算数科も請け負っているのである。
 ところが、「基礎的・基本的な内容を身につけること」と言われて、「基礎・基本の確実な定着」がスローガンになったときに、その中味は、「基礎的な知識と技能」だけであるかのようにとらえられる傾向がある。
 そうではない。「基礎的・基本的な内容」とは、「基礎的な知識と技能」だけではない。「考える力」までもが「基礎的・基本的な内容」である。そのことを示した言葉が「確かな学力」である。文部科学省は「知識や技能だけでなく思考力、判断力などまで含めた学力」を「確かな学力」としている。
 具体的な事例をあげてみよう。
 例えば、1年生の子どもが、学年後半には「9+4」のような、いわゆる、くり上がりのあるたしざんの計算を学習する。そこでは、計算の仕方を考えたうえで、くり上がりのあるたしざんができるようにしていく指導が計画される。すなわち、計算の仕方をいくつか考え出し合い、話し合い、その計算の仕方を一般的な方法へとまとめ上げていく。そして、その一般的な方法を練習して、ひとつの技能として習熟を図り、定着させていくのである。
 そのような計算の仕方を考えさせ、話し合い、一般的な計算方法をつくっていくように指導計画を仕組むのは、「考える力」を育てるという目標があるからだ。ただ単に計算ができるようにするためだけではない。計算ができるようになっていく過程を通して、自ら「考える力」を育てることが算数教育の重点目標なのである。
 
3.「考える力」を育てるというが、そこに大きな問題がある。
 それでは、いったい「考える力」とはどういう力であろうか。計算の仕方を考えると言うが、その「計算の仕方を考える」ことを通して、どのような考え、どのような思考力を育てようとするのか。
 これが意外にも、というか、やっぱりというか、不明確なのだ。いろいろ子どもたちに考えさせたけれども、いったい授業者は何を指導したかったのか。どんな考え方を育てようとして意図したのか、それが不明確なのである。
 これは大問題だ。育てたい「考える力」を理解したようなつもりになっているが、実は、あまりよくわかっていない、ということが多いからだ。育てたい考え方がよくわからずに授業が進んでいく。これは大問題である。何を治すのかわからないで手術がはじまるようなものだからだ。
 「基礎的な知識と技能」については、前述のようにきめ細かくその内容が目標として明確にされている。だから指導しやすいのである。それに対して、「考える力」については、目標もその内容も不明確である。それだから、「考える力を育てる」とは、何をどのように評価して、何を教えて育てるのかわかりにくい。その結果、「考える力」を育てる授業が敬遠されていくのだ。 具体的な事例で、「考える力」を育てるプロセスをとらえてみよう。例えば、第4学年の前半に、「わり算のしかたを考えよう」といった単元がある。「80÷4」といった、何十、何百のわり算をはじめに扱って、二けたや三けたの整数を一けたの整数でわるわり算の仕方を考えさせ、わり算の筆算を指導する単元である。
 その第2小単元の1時間目である。前時までに「80÷4」や「240÷6」といった計算ができるようになって、今度は「52÷4」といった計算の仕方を考えさせようというのである。





 
  秋田  
 52は40と12
 40÷4=10
 12÷4=3
 10+3=13
 





 
  井田  
4×10=40
4×11=44
4×12=48
4×13=52
 





 
  宇田  
4×10=40
52−40=12
12÷4=3
10+3=13
 





 








 
  江田  


●●●●   ●●●●  ●●●●  ●●●●
●●●    ●●●   ●●●   ●●●
●●●    ●●●   ●●●   ●●●
●●●    ●●●   ●●●   ●●●
  13    13    13    13
 








 
  織田  
52   2
     50 
        
 20  30 
20÷4=5 
32÷4=8
   13
 








 
 
 問題場面の話しがあって、「52÷4」という式がたてられた。もちろん、わり算の意味を踏まえながら式が出てきた。そして、このわり算の仕方を、今まで学習したことをつかって考えようというわけである。
 しばらく子どもたちは考え、前記のような5人が5通りの計算の仕方を考え出してきた。
 さて、それでどうする。これが大問題なのである。計算の仕方を考え出させたのであるが、そこから、どんな「考え方」を目標にして、整理していけばいいのかわからないのである。「高め合い」とか「練り上げ」とか、その授業の文節を解説する美しい、何となくわかったような言葉はある。しかし、何を育てるために、「高め合い」「練り上げ」るのか不明確なのである。これが大問題である。であるから、下手をすると。
 「今日は、いろいろ考えられて偉かったね。すごいかったよ。すばらしい  考えがたくさんでてきたね。」
 それで終わりなのである。何がすごかったのか。何がすばらしい考えだったのか、子どもにとって、いや、本当は指導者にとっても不明なのである。
 もちろん、いろいろ計算の仕方を何とか考え出したこと、そのことに価値がある。しかし、それでもはっきりしない。なぜならば、いろいろな仕方を出すということには、何の目標があるのか、どのような価値があるのかがはっきりしないからだ。なんとなく、人と異なるいろいろな考えを出したことはいいことだ、これが創造だ、等と抽象的な言葉でまとめられてしまう。
 これでは何の考え方を育てようとしたのかわからない。わからないことは、やらない方がいいとなる。だから、計算の手順をはやく効果的に効率的に伝達し、その習熟をガンガン図ればいい、となる。
 そして、以下のような指導がはじまるのである。

●教科書の問題を読みなさい。⇒「52まいの色紙を、4人で同じ数  ずつ分けます。一人ぶんは何まいになりますか。」
●式をかきなさい。⇒「52÷4」
●そうですね。今日はこの計算の仕方を考えます。52は、50と2 ですから、10のたばはいくつありますか。⇒「5つです。」
●そうですね。この5つのたばを、はじめにひとたばずつくばると、 1たばあまります。そして残りは全部で、10のたばひとたばと2 まいですから、のこりは何まいですか。⇒「12まいです。」
●そうです10と2で12まいです。これをさらに4にんでわけると 12÷4で3です。ですから、一人ぶんは、10と3で13です。
 そこで、52÷4は次のように筆算ですることができます。
 
 これでは、計算はできるようにはなるが、「知識や技能だけでなく思考力、判断力などまで含めた学力」、「確かな学力」はつかない。つかないどころか、先生の熱心な雰囲気のなかで、いわれる通りにすればできるようになるんだという妙な状況を学んでいることになる。
 こうなってしまう原因は、どのような「考える」力を育てていこうとするのかが不明確である、ということにつきるのである。
 
4.育てたい「考え方」を子どもの姿でとらえよう
 どのような考えを育てるのかを明確にするために、ひとつのサンプルを挙げてみる。
 年度末に私たちは「指導要録」をつける。算数科について、ひとつの観点として「数学的な考え方」の達成状況を評定することになる。その評定の具体的な内容の記述から、育てたい「考え方」を読み取るというわけである。文部科学省は別紙「小学校児童学習指導要録に記載する事項等」という文書のなかで、「学年別の評価の観点の趣旨」という小見出しで、各学年の「数学的な考え方」の評定のための視点を提示いている。その文言のなかに、算数科で育てたい重点的な「考え方」が、ひとつのサンプルとしてみえてくる。
 以下のよう肉述されている。

 算数的活動を通して、数学的な考え方の基礎を身に付け、論理的に考えたり、発展的、統合的に考えたりする。
 
 ここに示されている考え方は「論理的に考え」ることと、「発展的、統合的に考え」ること、である。この二つの「考え方」、すなわち、「論理的な考え方」と「発展的、統合的な考え方」が、算数で育てたい考え方であるということがわかってくる。
 そこで、次に問題となることは、「論理的な考え方」と「発展的、統合的な考え方」とは具体的にはどういう考え方なのかということである。子どもがどのような発言や操作をしたときに、その二つの「考え方」が育ってきたということになるのか、ここが大きなポイントである。    
 なぜかというと、「論理的な考え方」と「発展的、統合的な考え方」という難しい言葉遣いで説明されると、わかったような気がするのだが、どのような子どもの姿なのかがはっきりしないと、「高め合う」、あるいは「練り上げる」方向や目的達成という結果として得るものが不明確になってしまうのである。方向や目的を失えば、何をやっているのかわからなく、授業が這い回るのである。その結果、「今日は、いろいろ考えられてすごいかった。」とあまり達成感がなくで終わってしまうのである。
 そこで、ここではひとつだけ、前述の「52÷4」の計算の仕方を考える授業から、子どもの姿を見いだしてみよう。
 この授業では、「発展的、統合的な考え方」を育てるひとつの場面として授業を位置づけることができる。それでは、「発展的・統合的な考え方」とは、具体的には何か。
 「発展的な考え」とは、「ものごとを固定的・確定的なものと考えず、新たなものに」とする考えである。具体的には、例えば、整数の世界のことを「じゃあ、小数になったら」と考える。これが「発展的な考え」考えである。また、「統合的な考え」とは、発展的にとらえた同じ文脈の物事にも、同じ共通するところを見いだし、同じ形式を与えようと包括的に規定したりまとめようとする考えである。例えば、かける小数についても、割合を求める計算という同じ仕組みを発見し、整数をかける計算と同じように×の記号でかけ算としてとらえていこうと考える。その考えが「統合的な考え」である。
 具体的な例をあげるとわかるように、「発展的な考え」と「統合的な考え」は共にセットで行われる子どもの行為である。すなわち、発展的に考えて、他の場合を考え、その他の場合を包括的にしていこうというのが「統合的な考え」であるからだ。あるいは、いくつかの場合に「同じ」共通点を発見し統合的に考えたときに、「じゃあ、他の場合はどうだろう」と発展的に考える場合もあるからだ。
 さて、「52÷4」の5人の計算の仕方である。そこには、共通していることがある。それは、いずれのやり方も52を何とか今まで知っているわり算が使えるように、すなわち、かけ算九九やかける10,すなわち、10の段まで含めて、既習のかけ算を使ったわり算が出てくるように、52を分解しているということである。
 秋田、井田、宇田、の3人は、40を思いつき、52を40と12に分解しているのである。江田は、4×4で16、3×4で12、それが3回、すなわち、52を16と12と12と12にわけている。そして、織田は、はじめに52を50と2に分けて、そこから、52を20と32に分けているのである。
 すなわち、この授業、「52÷4」の計算の仕方を考える授業では、52を分解するという同じ計算の仕方に気付き、わる数の10倍とその残りをわっていくという計算の仕方を形式化していくという「統合的な考え」を育てること、そして、そこで気付いた計算の仕方が、例えば、「84÷7といった他の場合にはできるかな」といった「発展的に考え」を育てることが本時の目標となるのである。
 以上のように、例えば、「統合的・発展的な考え」といった育てたい考え方を、具体的な子どもの発言や操作のなかに見いだし、目標として位置づけて、それを取り上げ、認め、進めていくように授業のなかで評価していくことが、「考える力」を育てる授業には欠かせないのである。
 そういう授業を具現化するために、育てたい考え方を、抽象的な文言から、具体的な子どもの姿でとらえ、まずは、目標を明確にしていかなければならない。その目標の明確化ということが、教材研究、教材開発のスタートなのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 (資料3)
 


 
  子どもの「しぐさ」を評価せよ
     算数科という教科の存在意義
 
1.算数授業は何のためにするかと問えば
 学校での算数数学の授業は社会に役立つか。このダウトに影響されたのか、高等学校での数学の授業は選択制になり、中学校での数学の授業時数と内容が削られた。小学校算数もご承知のとおりだ。この状況になりもはや7年目、平成17年である。これでいいのか。あらためて算数科の存在意義を考えた。
 小学校にどうして算数科があるのか。
 まず始めに出てくるこの問いの応えは、「基礎的な知識と技能の獲得のため」である。生活に必要な数や量とその計算や測定について、あるいは、図形や統計について、それぞれの基礎的な知識や技能を、小学校の小さい子どものころから身につけるためである。
 であるから、ともかく、算数の授業では、知識を定着させ、技能に習熟させようと、反復練習が主流になりがちだ。指導者は反復練習の指導法に工夫を凝らす。それがうまくいくようになると、確かに子どもの習熟度は上がり、それなりの充実感を得ることができる。
 しかし、それだけでいいのだろうか、という疑問もやってくる。知識定着、技能習熟だけの無意味さに気付くからである。
 そのとき、次の応えが出てくる。知識や技能を身につける過程をとおして「考える力を身につけるため」という応えである。そこで、算数の授業では、既に身についている知識や技能を活用して、新たな知識や技能を身につけていくことを通して、創造的に、論理的に考える力を伸ばしていこうとするのである。
 
2.「考える力」育てるためにというけれど
 ところが、『数学的な考え方』という言葉で代表されるように、「考える力」とは何かが不明確なのである。不明確というのは、育てたい「考え方」が何か、が不明確であるというのではない。そうではなく、「どれか」が不明確なのである。すなわち、『数学的な考え方』とされる「考え方」は明確にされてきている。しかしながら、それはいくつもあり、煩雑で複雑なのだ。。「この授業ではどれなのだ」、とか、「小学校の算数の授業で育てる重点はどれなのだ」が不明確なのである。
 そして、その重点化された考え方とは、具体的には子どもの姿としてどういう姿として表現されるのか、それが不明確なのである。
 
3.子どもの「しぐさ」を評価すると
 具体的な子どもの「考え方」の姿を明確にするとなると、具体的には、授業中の子どもの発言とか操作が思い浮かぶ。いわゆる「しぐさ」である。すなわち、「考える力」を育てるために、授業のなかに出てくる、教材に対して働きかけた子どもの考える「しぐさ」を評価し、指導していくことになる。
 「しぐさ」には、「仕草」と「仕種」がある。つまり、何かが表現されて出てきた「草」にあたる「ことば」「操作」があり、そのもとになる「種」にあたる本質的な何か「考え方」がある。子どもが表現する素直な「ことば」や「操作」、そしてそのもとにある「考え方」、この両方を見逃さずに、取り上げ、認め、価値付けて子どもに返していく、それが評価することである。
 
4.本質的な意義がみえてくる
 ところで、子どもの「ことば」や「操作」、そしてそのもとになっている「考え方」が授業をすすめる役目として望まれてくると、授業は、単なる知識獲得、技能習熟、思考力育成の場だけではなくなる。感覚を得る感得の場であったり、学び方を知る態度形成の場であったりする。さらに、数や図形についての美しさなどを感得したり、その学び方を知ることを通して、「不思議さ」や「畏敬の念」を知り得たり、「あの人がいたからよりよくわかった」とか、「あの人のいいところ見つけた」といった、人間の交わりや生き方までも知り得ていく。いわゆる、算数の授業は人間形成の場でもあるのだ。数量や図形という抽象的な教材だからこそふさわしい人間形成の場であるという算数授業の本質的な存在意義がみえてくる。