平成21年5月7日
一国しか見えていない悲劇
昭和七年(1932年)、松岡洋右が国際連盟総会に全権として参加することとなった折のこと。この話しを聞いた吉田は、即座にその危うさを感じ取った。松岡は英米の実力を軽視しドイツの力を過大評価していたからである。そこで吉田は、牧野の義弟である秋月左都夫(あきづきさつお。元読売新聞社社長、元オーストリア大使)を連れて行くよう申し入れたが、”お目付け役”だと察した松岡によって一蹴される。怒った吉田は松岡に向かって、
「あなたはドイツしか見えていないようですが、出かける前に頭から水でも浴びて少し落ち着いてから行かれてはいかがですかな。」
と言い放ったという。松岡といえば当時飛ぶ鳥を落とす勢いで、外務省を牛耳っていた人物であるが、吉田はそんなことなど眼中になかった。吉田の懸念は果たして現実のものとなる。昭和八年二月二十四日、松岡は国際連盟総会の場から芝居がかった退場をし、その後わが国は国際連盟を脱退。国際社会の中で急速に孤立していくのである。(北康利「白洲次郎
- 占領を背負った男 - 上」講談社文庫、平成20年、79-80p/255pp)
以上