CLASSROOM

 

授業

プロジェクト応用U−グローバル化と経済−2002年度

 

<中華料理>

 

 

中華料理班レジュメ



班員氏名:田澤 壽樹
                  田辺 景星
                  直井 典之
                 長嶋 愛
                     
                         
中国料理
美食民族が練り上げた世界一の味


 その材料といい、調理法といい、その味といい、世界で最も優れた料理であるといわれる中国料理の歴史は極めて古い。中国で生まれた独特の料理であるから、北京原人がその元祖中の元祖かもしれないが、紀元前5ー8世紀の春秋時代にはもう既に世界で最も進んだ料理となっていたのである。その頃の世界文明のもう一方の雄であったギリシャでは、「なま」で食べるか、または「焼く」ことしか考えなかったが、同時代の漢民族はすでに「蒸す」とか「煮る」ことも知っていたのである。食べることに関して漢民族はいかに熱心に工夫をこらしていたかがうかがえるのである。
 料理の方法を研究して美味しく食べることに情熱を燃やしていた漢民族は、今の表現でいえば、美食家であったといえる。その美食家が数千年の時間をかけて練り上げたのが中国料理である。中国では裁縫は女の仕事、料理は男の仕事というように分かれていた。「食」の楽しみ方は男の手に任されていたのである。
 宮廷でも料理人の地位は高く、医師と同格か、時にその上でさえあった。このように料理人が厚遇されていたことが優秀な料理人を生み出すことにつながり、また、同時に、料理法や材料などに縦横な発想を試みる環境に恵まれていたことは確かである。美食家漢民族の優れた料理人たちは、清の時代にはすでにその中国料理を現代と同じレベルにまで完成させていたといわれている。
中国各地の郷土料理
ヨーロッパにフランス料理、イタリア料理、ドイツ料理、ロシア料理など多く種類があるように、広大な中国にも気候や風土や産物の異なる地域によって北京料理、上海料理、南京料理、広東料理、潮洲料理、客家料理、福建料理、四川料理・・・など、地域によりそれぞれ特色のある味わいが培われてきた。隋時代になって運河ができ南北の交流が容易になってからは、他の地域の材料や香辛料なども使われるようになり、料理もますます多彩なものとなっていったのである。しかしながら、その地域の伝統的な料理法などはしっかりと守られてきて、純粋な形で今日に伝えられている。それは、その地域に土着した郷土料理ともいえるのである。先に引用したヨーロッパの例のみならず、狭い日本でも、例えば東北と関西の料理ではかなり趣を異にしている部分があるのであるから、広大な中国ではそれらの郷土料理も、南と北、沿岸部と内陸部では材料、調理法などに大きな違いがあっても不思議ではない。このさまざまな郷土の味は、観光客にとっては大きな楽しみであり、あらゆる地域の中国人が集まっている香港では、それらを容易に食べ比べできるのは幸いである。ただ、一口で郷土料理の違った味わいを楽しむといっても、それは容易なことではない。中国料理には主なものだけでも8つや9つの地域別の系統があるのである。現在の香港観光のパターンである3泊4日では夕食は3回しかなく、昼食も多くて3回である。昼、夜、全部中国料理をとるとしても6回の機会しかなく、かりに食事ごとに違った系統を試みるとしても、6つの系統しか経験できないのである。また、そればかりか、同じ系統でもレストランによりそれぞれ自慢の味があり、「うまい店」と名が通っているところだけでも数限りなくある。それに加えて香港独特の、デイムサム(点心)とよばれる、いわば中国式スナックとお茶を楽しむヤムチャ(飲茶)や精進料理にまで対象を広げるとなると、1度や2度の香港観光では勿論、例え10回訪れても到底香港の中国料理を味わい尽くせるものではない。このような「尽くせぬ魅力」は香港の大きな観光的資産であり、何時までも人々を香港に引き付け続けることになろう。
中国の郷土料理を楽しむ
潮州料理
広東省の東端の漁業基地にある潮安市の元の名前が潮州である。すぐ隣には、レース編みで有名な、あのスワトウ(汕頭)がある。広東省の一部なので、広東料理と同じく海産物料理が多いが、潮州料理は独特な珍しいソースを使って、広東料理とはひと味違った味わいと出している。しかし、基本的には広東料理の影響を大きく受けていることは事実で、材料の持ち味を素直に生かす料理が多い。 潮州料理の名物料理はなんといっても、かの有名なツバメの巣(燕窩)のスープとフカヒレ(魚翅)のスープである。燕の巣は、海燕の巣のことで、海燕が海草などを唾で固めて作った巣から細かい異物を丁寧に取り除き、十分に洗ってスープの具にするのだが、巣自体が海に面した危険な断崖絶壁にあり、容易には手に入らず、従って高値であることも手伝って、非常に珍重がられている。この燕の巣は、また栄養も豊富だともいわれている。フカのヒレは、乾物にしたものを長時間かけてもどして使われるが、日本からも輸入しているようである。
 いずれにしても、この2つは潮州料理を代表する豪華な珍味なのである。

 食前と食後には小さな、日本の杯のような茶器にいれたこいお茶がだされるが、これは高級ウーロン茶の鉄観音である。このお茶はカンフー・ティーとも呼ばれていて、消化を助けるというが、器が小さいからといってグイグイと飲み過ぎると眠れなくなる。

客家料理
 客家とよばれる民族は漢民族に属していて、その祖先は中国大陸の黄河の中流から下流にかけて住んでいたらしいが、昔から特に南方に向かって移動を繰り返して同じ所に定着せず、そのため何処へ行っても「よそもの」扱いを受けた苦難の歴史を背負っている。客家人というのは、字の示す通り、「客人」、つまり「よそもの」という意味である。
この客家は、そのような事情から、独自の言語、文化、伝統、風習を持っており、極めて団結心が強く、また、移動先の土地の物に負けまいとしてよく働き、また教育熱心でもある。また、中国大陸に留まらず、世界各地に雄飛し、華僑として成功している客家の子孫も多い。香港には、特に新界地区に、かなりの数の客家が昔から住み着いている。その客家の祖先伝来の伝統的な味が客家料理であり、大体肉類を中心とし、香辛料やラードをたっぷり使った調理法に特色がある。鶏の塩蒸し焼きやエビの塩焼き、豆腐料理、それに、餅米や蓮の種、細かい肉の角切りなどを詰めたアヒルの丸焼き「客家鶏」などが知られている。

福建料理
 中国大陸の南、台湾に対面したところにある福建省の郷土料理だが、広東料理と共に南部沿岸地方の代表的料理である。しかし、広東省に比べ開発が遅れた地方であったためか、素朴な味わいを特徴としていて、広東料理よりもさらに淡泊である。また、時間をかけ、ゆっくりとろ火で煮た煮物に醤油を使うのを好む。海産物料理が多く、貝や軟体動物もよく使われる。
 地理的位置関係から台湾の言葉に福建語があるのと同じように、台湾料理もかなり福建料理の影響を受けている。

湖南料理
広東省の北に位置する湖南省の郷土料理で、唐辛子やニンニクを使った料理が多く、辛党に喜ばれる。しかし、一方で、中国各地の料理の様々な特徴も融合されていて、独特の魅力を生み出している。
 湖南料理は辛いばかりではなく、蜂蜜もしばしば使われ、特に有名なのは湖南ハム(富貴火腿)で、スライスしてパンケーキに包んで食べるのだが、蜂蜜の爽やかな甘味が魅力である。また、食器や容器の類に、湖南省特産の素焼きが使われることも多く、素朴なローカルの雰囲気が味わえる

飲茶
お茶を飲みながらデイムサム(点心)とよばれる中国式スナックを食べるのをヤムチャ(飲茶)という。最近では日本でも食べられるが、何といっても、香港が本場である。飲茶という文字が示す通り、元来はお茶を楽しむことの方がメインで、お茶をゆっくり飲みながら、色々な種類のデイムサムを少しずつつまむのが、本来のスタイルなのである。だから飲茶を十分楽しむには、お茶も重要な役割を占めることになる。ボーレイ茶が一般的だが、他のお茶、例えばコッフアー(菊花)茶などとブレンドしたものも飲まれる。いずれにしても、飲茶の場合、たくさんの違った種類のデイムサムを次から次へと口に入れるのであるから、新しく味わう前に、前の味をすっかり流す必要があり、そのためにもお茶をたくさん飲むことになる。
 デイムサムそのものは古くからある広東料理の一つだが、広州で生まれた飲茶なるものがやがて香港にも入ってくる。しかし、香港にそのための『茶楼』ができたのは、19世紀に入ってからのことらしい。1934年に開店した永吉街の『陸羽茶室』は有名である。一般に茶楼の1階は庶民用で、上層階級の人達は2階を占領して、朝から優雅にお茶(飲茶)を楽しんでいたのである。
 しかし、現在の飲茶はお茶を楽しむというより、デイムサムを食べる方がメインになってしまい、お茶はその合間に飲む物となってしまった。今や飲茶は香港のポピュラーな『昼食』として知られており、事実、飲茶といえば香港、香港といえば飲茶、というわけで、飲茶抜きで香港の「食」の楽しみは語れないほどである。
 広東料理のレストランの多くは昼時になると、この飲茶を用意するが、その他にも飲茶レストランは無数にある。
 デイムサムはギョウザやシューマイを始めとして、骨付きのバラ肉の蒸したもの、蒸した牛肉団子、鳥肉のブツ切りの蒸したもの、鳥肉や豚肉の蒸し饅頭、ハスの葉に包んで蒸した牛肉団子などなど、蒸した料理が多く、小さなセイロ(蒸篭)に入れて出されるのが普通である。しかし、蒸したものばかりでなく、春巻きのように揚げたもの、野菜炒めのように炒めたものなどもある。
 中国料理の名声の一端を担うだけあって、さすがにその種類は驚くほど多く、バラエティーを楽しめる。しかも、今日なお次々と新しいメニューが生まれているのである。
 デイムサムはみな少量ずつで食べやすく、また、一つ一つが安いから、色々な種類を数多くトライできるというものである。最後は炒飯とか炒麺で締めくくりもできる。

 デイムサムは、駅弁スタイルで売り歩くレストランもあるが、普通は大体種類別に分けたワゴンに入れて、売り子が時に売り声をあげながら、混雑したテーブルとテーブルの間をグルグル廻って売っている。食べたいものが近くに来たら呼び止めればよい。
精進料理
材料に肉や魚を使わず、油も植物性の油しか使わない精進料理は、いわゆるベジタリアンのための食事のように思われるが、中国では宗教上の理由からのみならず、肉抜きは消化器や循環器などの調子を整えるのに効果があるとして、何千年もの昔から存在していたのである。
 宗教との絡みはさておき、もし、その頃すでに健康上の理由から精進料理を考えたとしたら、これは大変なことである。経験的にそのようなことを知ったのだろうか。 最近では美肌を保つためにも効き目があるというので、若い女性の間でもファンが多い。日本の普茶料理も、そのルーツは中国で生まれた精進料理にあるという。 動物性の材料を排除して、野菜や各種の穀物、きのこ類、豆腐、それに、油はピーナッツ、胡麻、大豆などの油しか使わない精進料理を今日まで伝えてきたのは、やはり食欲をそそるための工夫があったからだと思われる。一つには健康維持のためということもあったかもしれないが、「料理」である以上、食べたいという気を起こさせるものでなければならない。精進料理を支えてきたのは、やはり中国人の卓越した調理技術ではなかったのだろうか。
 その深みある味わいは言うに及ばず、チャーシューやローストダック、貝柱などとそっくりに似せた豆腐料理まである。見た目だけでなく、味や舌触りまで本物とそっくりときては、これはもうイミテーションの世界を飛び越えた、長い年月の間に磨き抜かれた精緻な調理技術の極致以外の何ものでもなかろう。
『精進』とは、もともと仏教から出た言葉で、動物の殺生に繋がる食事をとらないという教えに沿った、粗食のことをいっったのであるという説があるが、もう一説によると、これは、仏教などの宗教とは関係なく、宋の時代に、しばしば貧困のため、肉や魚を使わない菜食主体の食事がやはり、これを『素食』といっていたという。特に、当時の文人たちの間で広まったとのことだが、我々が言う『素食に耐える』という表現も、ここから始まったかとも思われる。
 精進料理のルーツとしては、いずれが正しいのか分からないが、香港では精進料理のレストランはみな「素食館」とか「何々素食」とかいう看板を掲げていて、いわゆるベジタリアンがお得意さんである。

 

の中国料理
今日の中国料理には変化がみられます。それは次のようなことが原因となっています。
  
(1) 料理法の変化 
   十数年前に経済開放政策が実施され、香港料理が大挙して大陸に入りました。その時から中国人の食生活は一変しました。それまでの料理の定番がレストランのメニューから消え、新しい料理が次々と現れてきました。同じ食材を用い、従来の調味料を使って作った料理でも、昔と違った味や外観が流行るようになりました。もっと興味深いのは料理法の変化です。かつて料理とは「炒(炒める)」、「爆(ゆでる)」蒸すかの加工を経て、水を切ってから多めの油で炒めるか、「炸(揚げる)、「煎(多めの油で、じっくり焦げ色を付ける)」、「煮(煮込む)」、「蒸(蒸す)」などが一般的でした。なかでも炒め物が主な調理法でした。ところが、現在は炒め料理が激減し、そのかわりに、つい最近まで見たこともない漢字で表示された新しい料理法が目立ってきました。それらの語源はもちろん広東語です。料理法だけでなく、食材や調味料にも広東方言が頻出しています。一口に広東料理といっても、「伝統」的なものと、新しく登場してきた料理があります。新しい料理とは、社会主義中国が成立し、大陸と文化が隔絶状態にあった香港で出現した料理です。香港文化と欧米文化との間には盛んな往来があり、また華僑のビジネス・ネットワークによって東南アジアともさまざまな人的、物的交流がありました。その中で香港料理は絶えず新しい要素を取り入れました。もっとも目立つのは西洋料理の食材やソース、東南アジアの魚醤などの使用です。

(2)ファーストフードの影響
 ここ数年、欧米や日本から入ってきたファーストフードも、中国の食文化および中国人の味覚を大きく変えました。マクドナルドの第1号店は予想に反して、売上は鰻登りに上昇し、短い期間内に市民生活に定着しました。事業は確実に拡大し、中国の主な大都市に相次いでチェーン店がオープンしました。どの店にも客があふれ、世界で最も売上の多いチェーン店は中国にあるとまでいわれています。若い世代のマクドナルドに対する偏愛は驚くものがあります。また、ケンタッキーフライドチキンの出店は印象的でした。鶏は従来中国人のもっとも好きな食べ物で、かつ高級な食べ物といったイメージが定着しています。そのため、ケンタッキーフライドチキンが上海に第1号店を出す時に、地元の外食業は大いにライバル意識を刺激されました。中国の鶏料理がアメリカなんかに負けていられないという思いからか、「ケンタッキー」というブランド名に対し、「栄華鶏」と意味ありげな名前を付けました。しかし、中米チキン戦争は意外な結果で終了しました。二つの店は共倒れしなかったばかりか、双方とも売上を伸ばしました。「栄華鶏」は「ケンタッキー」のために名が広がり、「ケンタッキー」も「栄華鶏」のおかげで名が広く知れ渡りました。今では、中国人は親戚や友人にご馳走する時にも、ケンタッキーを利用します。おそらく20年も経たないうちに、若い世代はケンタッキーやマクドナルドを外来の食品とは思わなくなるに違いないと思います。


                        ← ↑ マクドナルド(中国・北京)
参考URL: http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5203/macd/chn.htm
http://green.sakura.ne.jp/^kennishi/54kadai/kadai2-12.htm


ラーメン

日本のラーメン
日本のいわゆる"ラーメン"(中国語では拉面(ラーミェン))は、元々中国が発祥である。日本では麺類を食べる習慣がなかったが、大体8世紀頃の奈良時代に遣唐使の手で日本に伝えられた。当初、今のうどんみたいな形の麺が食べられていた。江戸時代になると、副将軍である徳川光圀(水戸黄門)が清国使節団に謁見したとき、初めて現在の中国にある拉面を食したとされている。明治時代に入ると、横浜で仕事をしていた清の商人や船員を相手に拉面店が開かれた。当時(1900年頃)はラーメンという言葉はなく、支那そばとして名を馳せていた。このラーメンという言葉は、手で伸ばしていく拉麺(ラアミェン)から生まれたという説が有力とされている。横浜の中華街には広東、福建省出身の華僑たちが多く居住していたので、中国南部で好まれる塩味の湯麺が主流だったが、それを日本人の嗜好に合うようにしょうゆ味にしてラーメンが発展していった。それが瞬く間に日本人の間に拉面を食す習慣がうまれたのである。そして日本人の口に合うように改良された。その後、醤油味、味噌味、豚骨などのラーメンが生まれ、日本食として定着したのである。
中国のラーメン
一方、中国の拉面は、牛肉麺という牛骨をベースにした拉面であり、日本のものとだいぶ異なる。中国で麺というと広く小麦粉製品を指す。日本でいう細長い麺の事は、麺条(ミェンティヤオ)という。小麦粉をこねたものを包丁で削るようにして作る刀削麺、こねた小麦粉を包丁で切っていく切麺、こねた小麦粉を一滴の水も使わずに卵だけで練って作る伊府麺、どんぶりにゆるめに溶いた小麦粉を入れ、沸騰した湯の中に箸などで切るように落としていく撥魚子、小麦粉を練ったものを1cm角に切り、親指の腹でのしながらくるっと指先を回して丸める猫耳朶、龍のヒゲのように細く伸ばし油であげて砂糖やごまをあしらって食べる龍髭麺など各位にたくさんの麺がある。

中国でラーメンを食べると必ず香菜がはいっている。
海外でおいしいラーメンを食べることはまず不可能とっていい。日本に帰るとまずはラーメンを食べる、という駐在員も少なくない。そして、うまいラーメンがないというのは、ラーメン原産の地中国でも同じことである。

参考URL:ururun.com/bn/291.htm


広東料理
広東料理は、広州、東江、潮州など、いつくかの小さな料理が集まって構成されていますが、主に広州地方の料理を指しています。他の中華料理に比べ、材料が新鮮で、数が豊富、変化に富み、季節ごとに異なった変化をし、美味をどこの料理よりも求める傾向が強いと言われています。味の特徴としては、淡白で鮮度のよさへの要求が高く、嫩・爽・滑・香・酥・脆・肥・濃を重します。香港は大陸中国のどこよりも豊富な食材に恵まれ、新鮮な海鮮が大量に供給されています。また、人々の食に対する要求が高く、競争も激しくさらに、外国料理の影響を受け、研究熱心なシェフたちは、積極的に取り込む姿勢があります。香港のシェフは大陸だけではなく世界中で常に高い地位を持っています。香港の広東料理は常に進歩しつづけています。

料理の形成に関係する要因の考察

料理の形成に関係するものとして、
・ 位置
・ 気候
・ 歴史
の3つの観点で考えてみます。
位置と広東料理
広東地方は中国大陸の南沿岸部に位置しているために、魚介類を得る事ができ、また広東沿岸の南シナ海は暖流が北上しているので南洋の魚がやってくる。そのため水産物の材料が豊富なのではないでしょうか。実際に広東省の水産物の生産額は中国一です。気候と広東料理広東地方は亜熱帯であり、Aм気候、Cfаの境ですそのため、農作物の発育もよく、稲作も盛んです。素材が豊富なのはこの為ではないでしょうか。また、夏が長くしかも暑いので、味付けの濃いものでは食欲も湧かないのではないでしょうか。その為に広東料理はわりあいさっぱりとしていると考えられます。歴史と広東料理広東地方は歴史的にも他の文化との関わりあいが多いという事も広東料理の性質と関係していると考えられます。古くから中心都市広州は港町として栄え、文化の交流が多かったと考えられます。また1980年代にはいり、政府によって対外貿易・外資導入・外貨保有などをふくむ一連の特殊政策があたえられる経済特区が、他の省・市にさきがけて設置された、という事も文化の交流がもたらした広東料理の発展と関係があると思われます。


広東料理の世界への進出
「広東料理は日本で広まっている」というようなことを述べましたが、これは日本だけでなく、世界の国々においても、中華料理のなかで最もポピュラーな料理な料理は広東料理であるといえます。その理由は、世界各地へと移住している華僑の多くが広東地方出身であるからです。広東出身の華僑は2000万人以上といわれ、いかにその数が多いかがわかります。

考察
 現代では文化の交流というものが盛んになって、世界の様々な文化を体験できるようになっています。食文化はそのなかでも特に交流の激しいものの一つだと思います。例えば、日本人も50年前くらいはほとんど和食しか食べなかったのが今ではラーメンやハンバーグが一般の家庭の食卓にのぼったり、街に行けば世界の料理を食べる事ができます。同じような事は世界でも言えるでしょう。マクドナルドの店は様々な国にあります。今や、食文化は世界共通になろうとしているのではないでしょうか。広東料理を調べるうちにそんな事を考えるようになりました。しかし、食文化が世界共通になろうとしていても、個々の食文化が消え去って全て同じものになってしまうというとやはりそうではないと思います。それは、同じ中華料理の店でも店によって少しずつ味付けが異なっているように、地方地方によって違いがあると考えられるからです。広東料理は世界でも知られている料理の一つですが、これから更に、世界中で発展を遂げるでしょう。


「餃子」

日本での親しまれている中国料理の一つである「餃子」。この餃子についてグローバル的な視点でみていきたいと思います。

日本への伝わり
日本ではじめて書物に餃子が登場するのは、江戸時代に出版された中国料理の本『卓子調烹法』であるといわれる。しかし当時はまだ庶民の食べ物としては広がらず、明治時代になっても東京・神田周辺の数件の店で食べることが出来た程度であった。
 第二次世界大戦の前から、多くの日本人が中国北部に移り住んだ。そして戦争がはじまると、多くの日本兵が中国大陸にわたった。日本人が多くいた中国東北部は、餃子が好んで作られる土地であった。日本人の味覚にあったため、餃子を食べる人も多くなった。
 日本人の間に中国の食習慣が広がると、同時に餃子作りも行われるようになった。戦後、日本に帰国した人々が餃子の店を出し始め、餃子は日本でも人気メニューの一つとなった。とくに栃木県宇都宮市は,餃子専門店が多い「餃子の街」として知られている。


日本と中国の餃子の違い
日本で餃子と言えば、大抵は焼き餃子である。しかし、中国では、ゆでて食べる「水餃子」か、蒸して食べる「蒸餃子」が一般的である。大都市では焼き餃子をだす店もあるが、家庭では日本のように焼いて食べることはほとんどない。また、日本では餃子はおかずとして食べられるが、中国では主食になる。中国の餃子は、皮が厚くてもちもちしているので、ご飯代わりになるのである。


世界の餃子
中国生まれの餃子が、日本では焼き餃子として親しまれているように、餃子はすこしづつ姿を変えながら、様々な国でたべられている。
 中国のチベット文化圏内には、「モモ」と呼ばれる餃子がある。また、中国西南部と国境を接しているネパールにも「モモ」という同じような餃子がある。水牛の肉を使ったネパールのモモは、蒸してカレー味やトマト味の辛いたれをかけたり、焼いたりスープで煮たりして食べる。
 ロシアの「ペリメニ」は小さい生地に具を包んで、両端をくっつけた、丸いボタンのような餃子である。スープに入れて煮て、あつあつを食べるのがシベリア地方の冬のごちそうである。
 トルコの「マンドゥ」は、羊の肉を入れる。にんにく入りのヨーグルトとオリーブ油をかけて食べる。
 ベトナムの蒸し餃子「バンクン」は、小麦粉ではなく米の粉を使った皮で作る。クレープ状に皮を焼いて具を包み、蒸して食べる。
 韓国の宮廷料理「マンドック」は、キムチを具に加えた水餃子である。日常料理ではなく、正月などの特別な日に食べる。
 インドの「サモサ」は、おにぎりのような三角形をした揚げ餃子で、中身はジャガイモが基本。おやつとしても好んで食べられる。
 北アフリカのチュニジアでは、大きな皮に包んで揚げた「ブリック」が有名。具はツナ、羊の肉、エビなど。


参考ULR:http://members9.cool.ne.jp/^ayako-u/page2.htm

北京料理の特徴

 北部系の料理の中心となっているのが中国の首都、北京です。中国の北東部は、冬の寒さが極めて厳しく、また夏は暑くとても乾燥しています。広大な華北平原は平らで、黄河が運んできた黄土のおかげで土地が非常に肥えているうえ、黄河流域には千害施設が整備されているので、豊かな農業地帯になっています。そのためいろいろな作物に恵まれて様々な種類の料理が発展してきました。北京周辺の土地では寒すぎるほか、土壌が適していないため、米が作れません。その代わり、小麦、きび、大麦などの穀物を作っています。そのため、北部では小麦粉を使った食べ物が主役になっていて、麺類、まんとう、にくまん、もち類、ぎょうざ、シュウマイ、春巻などといったような小麦粉を使った料理がたくさんあります。また、寒い気候が影響してカロリーの高い料理が多いのが特徴です。酢、にんにく、コリアンダー、たまねぎ、ねぎ、塩などの風味がきつい調味料を用いる傾向があるのもその影響でしょう。言っておかなければならないのは、北京料理は中華料理の本場ではないこと。北京という都市はそもそも、モンゴル民族の国家であったときの都です。つまり北京料理には、モンゴル民族の影響がいろ濃く残されています。また、イスラム教徒の影響も強く濃く残されていて、中国各地で非常に好まれている豚肉よりも、羊や山羊の肉がよく食べられています。また、上にも書いたようににおいを和らげるために酢、にんにく、コリアンダー、たまねぎ、ねぎ、塩などの風味がきつい調味料を用いる傾向があるようです。歴史背景としては、黄河下流に生まれた山東料理が基本となって、回教料理、満州族やモンゴル族の料理が加わり、さらに明、清王朝時代の宮廷料理として発達してきたものでしたというのが簡単な流れなのですが、ながく王朝が置かれたこともあり、当時の宮廷料理が現在でも多く残っています。味付けとしては、こってりとした塩味とカロリーが高いのが特徴で、今や誰でも知っているほどに有名になった北京ダック、ジンギスカン、シャブシャブなどが代表的といえるでしょう。北京ダックは専用の肉用種のアヒルを強制的に肥育させ、丸焼きにしたものを皮をそいで甘味噌をつけて、千切りの葱と一緒にハピオンといわれる薄く焼いた小麦粉の皮に包んで食べます。この料理は味の強い甘味噌や小麦粉を使った点において、上に記したように北京料理の特徴をよく表しているといえるでしょう。今まで述べてきたように北京ではまず米が育たないのです。また北京料理のもととなっている、モンゴルでも同じです。この地域にも他の米が育たない地域と例外が無く、米以外の穀物(とうもろこし、小麦粉)をベースにしたものが主食として発展してきたのです。一見、鶏が主役の北京ダックにしても、小麦粉が使われているのはその為なのです。また、米が育たないことや全体的にカロリーが高いことの理由として、寒いことが挙げられます。昔からの伝統、気候等が影響して、北京料理は今にいたっているのです。

アメリカでの中国料理

1、アメリカチャイナタウンの中国料理

アメリカでの料理の特徴として、中国料理に限らず、アメリカやの食事は、一人前の量が多い(多すぎる)。しかし、その割には料金が安い。ランチタイムであれば、一品の料理、ご飯、スープ付きの定食を、四、五ドル前後で提供する店が多い。サンフランシスコのチャイナタウンの小さな湖南料理店のランチメニューの「湖南牛肉」は、3ドル95セントであった。サンフランシスコのチャイナタウンは、都心にあるので、昼時は摩天楼から出てきたビジネスマンたちでにぎわう。この点は、横浜中華街とよく似ている。ビールを注文すると、グラスが出てこない。客は皆、小瓶のビールをラッパ飲みしている。

 食べきれなかった分は、「ドッギー・バッグ」(飼い犬に食べさせるという口実から生まれた呼び方)という箱に入れてもらって家や職場に持ち帰る。このような点は、日本人も大いに見習うべきだ。 アメリカでも、中国料理は一般庶民の生活に広く定着している。多くの中国料理店が、テイクアウトのお客のために配布用のメニューを用意している。鍋貼(焼き餃子)、春巻、古老肉(酢豚)、蒙古牛肉(モンゴリアン・ビーフ)、西蘭牛肉(ブロッコリーと牛肉炒め)、腰果雛丁(カシューナッツと鶏肉炒め)などは、ポピュラーなメニューである。 アメリカの中国料理店で、よく出てくるスープが 酸辣湯(hot and sour soup)である。もともと四川料理の代表的なスープで、その名のとおり酸っぱくて辛い。私の大好物でもある。 在留邦人のあいだで評判のよいメニューの一つに、木須肉(mu shui pork)がある。卵・野菜・豚肉の炒め物を、北京ダックのように皮で包んで食べるところが人気の秘密である。
最近、アメリカやカナダのチャイナタウンを歩くと、「越南」(ベトナム)の文字が多く目に付くようになった。一九七〇年代半ば以降、ベトナムをはじめカンボジア・ラオスのインドシナから、難民として移住してきた人たち(その中には華人が多い)が、生活の安定とともに、徐々にチャイナタウンに進出してきているのである。どこのチャイナタウンでも、ベトナム料理専門店や中国料理兼ベトナム料理店が目立つようになった。大衆的なベトナム料理の代表である「フォー」(pho、ベトナム風汁ビーフンとでも訳しておこう)の専門店も多くみられるようになってきた。そのほか、タイ料理店、ビルマ料理店、シンガポール・マレーシア料理店など、東南アジアの華人経営のレストランも増えている。 ひとくちにチャイナタウンといっても、手短に紹介するのは至難の業である。

2、アメリカチャイナタウンの華人社会事情
(1)アメリカ全体における華人の割合 
 一九六〇年、アメリカの日系人が四六万人であったのに対し、華人人口は二四万人にすぎなかった。アジアからの移民を制限していた移民法に代わって制定された一九六五年の新移民法は、本国からの家族呼び寄せを促進するとともに、新しい華人移民の急増をもたらした。華人人口は、七〇年には四四万人となり、八〇年には八一万人に達した。そして華人は、フィリピン人や日系人を追い越して、アジア系アメリカ人の最大グループとなった。

 七九年の米中国交正常化以降、中国大陸からの移民が加わった。さらに八〇年代以降の改革・開放政策の推進は、中国大陸に出国ブーム、海外留学ブームを出現させた。中国において最も人気の高い、憧れの外国はアメリカであった。九〇年のアメリカの華人人口は、日系人人口の二倍近い一六五万人にまで膨れ上がった。その四割あまりが、カリフォルニア州に居住している。

(2)郊外化するチャイナタウン
 サンフランシスコのチャイナタウンから西へ六キロほど進むと、リッチモンド区のクレメント通りになる。この一キロあまりの通りの両側には、漢字の看板を掲げた華人経営のレストラン(中華料理店のほかにベトナム料理店、タイ料理店などを含む)、ファーストフード店、スーパーマーケット、銀行、書店、旅行代理店などが連なる。華人はここを新チャイナタウン(中国語で「新華埠」)と呼ぶ。

 サンフランシスコ中心部に位置する旧チャイナタウンは、駐車難が深刻で、老朽化が目立ち、治安悪化の問題を抱え、住民の高齢化が進んでいる。このところ来訪者数も停滞気味である。これに対し、新チャイナタウンは観光地ではないが、サンフランシスコ周辺各地から訪れる華人でにぎわっている。この周辺は、社会経済的に上昇した華人や、台湾、香港、東南アジアなどからの豊かな新移民に人気のある新興住宅地となっている。旧チャイナタウンの住民の多くは広東人であり、そこは古くから広東語の世界であったのに対し、新チャイナタウンの中華料理店では、マンダリン(いわゆる北京語)で会話している客が目立つ。

 このような郊外型の新チャイナタウンの形成は、アメリカの他の大都市においてもみられる。ロサンゼルスのチャイナタウンから一〇キロほど東に位置するモントレーパークの中心部は、「リトル台北」と呼ばれる新チャイナタウンの典型例である。ニューヨークの場合も、マンハッタンのチャイナタウンとは別に、郊外のブルックリンやクイーンズに新チャイナタウンが形成され、拡大を続けている。

 サンフランシスコから、その七〇キロほど南に位置するサンノゼまでの一帯は、シリコンバレーと呼ばれる地域である。このアメリカのコンピュータ産業の中心地では、華人の技術者や研究者が多数働いている。一般に華人学生は、理工系指向が強い。白人優位のアメリカ社会で生き抜いていくには、やはり高度な専門知識を身につけておくことが有利である。高学歴を有し、流暢な英語を話し、社会経済的地位が上昇した華人は、もはや老朽化したチャイナタウンには住まないし、住む必要もない。彼らは、郊外の快適な住宅地に居住することを望む。教育熱心な華人の親は、どの地区の学校のレベルが高いかということに、常に大きな関心をもっている。その結果、レベルの高い学区へ華人が集中することになる。

(3)華人のこれから…

 六〇年代の公民権運動の高まり以降、アメリカは移民に対して、きわめて寛容な政策を進めてきた。中国大陸、台湾、香港、東南アジアから、勤勉で教育水準が高く、有能な華人頭脳が多数流入し、アメリカの経済、科学技術の発展に大きな貢献をしてきた。しかし最近になって、アメリカ社会の移民に対する意識に変化が生じてきた。すなわち、苦労して納めた多額の税金が、不法移民やマイノリティ・グループの教育、福祉などに費やされるばかりだという不満である。

 1994年にカリフォルニア州の住民投票で、不法移民の追放を図るために不法移民への公教育、医療サービスの停止を求める「提案187」が、賛成五九%、反対四一%で可決された。急成長を続けてきた華人社会に対しても、今後風当たりが強まることが懸念される。

 

 

 

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