家族療法における権力問題

1、 はじめに:問題設定

【1】権力が問題になるというのはいかなる事態であるのだろうか? この問題を、家族療法における権力現象の処遇に着目することによって考えてみよう(1)。
 はじめに注意しておいてほしいのは、権力に関するこのような問題設定が従来のそれに比べていくぶん位相を異にしているということだ。これまでにも権力現象が、社会学において最も重要な問題のひとつとして理論布置の一角を占めてきたことは言うまでもあるまい。けれどもそこでの問いはほとんどの場合「権力の本態」を問うもの、すなわち「権力とは何か? それはどのように作用し、どのような効果を持つものなのか?」といった形で問われるものであった。この問いに対する答えは、これまでの長い議論の歴史が示すようにさまざまであり得るが、いまのところそれらの間で決着がついているとはいいがたいし、決着がつきそうな見込みもない。むしろ(とりわけ80年代を通じて)精力的に提出されてきた権力に関する諸議論は、そのひとつひとつは興味深くも魅力的でもあるのだが、トータルに見ると権力に関する謎−−さらには権力の実在に対する懐疑−−を深めているようにさえ思われるのである(2)。
 それに対して、ここで試みるのは、それら膨大な量の学的蓄積の上にもう一つの新しい「権力の本態論」を積み重ねることではない。そのような問いの立て方をあえて回避し、本稿ではむしろ「そもそも権力(と信憑されている諸現象)が問題になるということ、それがどのような事態であるのか?」ということを考えてみたい。
【2】それを考える際に、家族療法における近年の議論はよい手がかりを与えてくれる。というのも家族療法における権力現象の問題化は、次に説明するように、社会学におけるそれとはかなり異なった経過をたどったからだ。
 社会学において「権力」という概念は、もっぱら日常的な経験や実感−−抑圧されている、自由を奪われているなどの−−に基づいて組み立てられ、用いられてきたのだが、家族療法(少なくともその主要な流れの一つ)はそのような日常的・常識的権力概念を根本的に拒否することからその歴史を始めた。この理論的選択は、家族療法の源流(の一つ)であるグレゴリー・ベイトソンの認識論(いわゆる関係論的認識論)から直接に帰結するものだ(3)。ベイトソンによると、システム内部においてはすべての要素が互いに関係し合い、影響を与え合いながら存続しており、ある要素が被った変化の原因=責任を他の特定の要素に専一的・排他的に帰属するわけにはいかない。要素間の因果関係は常に循環的あるいは相互的なのであって、決して直線的あるいは一方的ではあり得ないのである。したがって、要素間に一方向的な権力関係を想定することは認識論的な誤謬であり、すべては相互関係において成り立っているのだとして、ベイトソンは次のように主張する。
「ユニラテラルな権力などというものが存在すると考えるのが、そもそも誤りでしょう。支配する側が一方的に権力を行使するなどということはありえません。”権力の中”にあるものも、つねに”外”からの情報に支えられている。その情報に反応するということを、出来事を引き起こすのと同じ程度にやっているわけです。ゲッベルズが、ドイツ国民の世論を一方的にコントロールしたなどということはありえません。国民の思考を操作するには、まずスパイを放つなり世論調査を実施するなりして、現在の動向をキャッチし、それに合わせて、こちらの宣伝内容を適宜調整する−−そしてその反応をまたうかがう、という繰り返しが必要です。これは相互作用であって、リニアルな出来事ではありません。」(Bateson,G.[1972=1987:643-644])
この認識論に依拠して独特の技法を開発してきたミラノ学派のメンバーは、家族システムについて次のような治療的立場を表明している。
「われわれは最近まで諸科学を支配してきた因果論的-機械論的に現象を捉える視点を放棄し、システミックな考え方を採用する必要がある。この新しい考え方に基づく治療者は、家族成員を相互作用の回路の要素であるとみることができるはずである。家族の中のどの成員の行動も他の人々に影響を及ぼさずにはおかないが、その回路のすべての成員に、全体に影響を及ぼす一方向性の力が備わっているわけではない。しかし、ある個人の行動が他の人々の行動の*原因*であると考えるのは、認識論的には誤りである。なぜなら、すべての成員は他の成員に影響を及ぼし、また逆に、他からも影響を受けるからである。個人はシステムに働きかけるが同時にその個人はシステムから受けるコミュニケーションによって影響されるわけである。」(Palazzoli,M.S.et al.[1975=1989:4])
 例えば、夫の引きこもりと妻のたえまない不平というよく知られた夫婦不和のケースについて考えてみよう。夫の観点からすると、妻の不平が耐えきれないのでやむなく自分のうちに引きこもるのだと感じられているのだが、妻の観点からすると、夫が引きこもってしまうからこそこちらに注意を引きつけようとして不平をこぼさざるを得ないのだ、ということになる。彼らは相互に相手が権力をふるっていると考えているわけだが、ベイトソンの考えでは、それは二人の間に直線的因果関係を想定する認識論的誤謬である(4)。セラピストの観点からは、二人の間には相互的・循環的な因果関係があると了解されるべきであり、この循環を断ち切ることにセラピーの照準は合わされなければならないのである(5)。
 けれどもこのような認識論は80年代に入って次第に批判の対象とされるにいたった。例えば、フラスカスとハンフリースはこの状況を次のように要約している。
「権力が、家族療法の文献においていくぶんかでも真剣に理論的あるいは政治的注目を向けられるようになったのは、実に1980年代初頭からのことにすぎない。」(Flaskas,C./Humphreys,C.[1993:37]) 「さらに近年にいたって、新しい認識論から構成主義への強調点の移動は、ホメオスタシスという観念−−循環性や相補性の概念はそこに依拠しているのだが−−を周辺へと追いやることになった。新たな強調点は、物語、治療的会話という観念の上に、そして変化と介入の過程を支える、文化的意味と信念の役割の上に置かれるのである。」[37]
ベイトソンに由来する相補補性・循環性が次第に後景に退き−−それにともなって直線的因果関係の復権が試みられもしている(Dell,P.F.[1986])−−、かわって権力が問題化されるというシフトが80年代以降今もなお進行しているのである(6)。
 社会学において権力は当然問題となるべき事象であると考えられており、問題と見なされることがあまりにも自明であるがゆえに、「権力が問題と見なされる」ということそれ自体の問題性が見えにくい。それに対して家族療法の理論は、「権力は認識論的誤謬である」という(権力現象の脱自明化を含意する)命題を自らの土台として出発したにもかかわらず、近年にいたって権力について問わざるを得ない状況に追いやらている。このような経緯をふまえると、家族療法に着目することで、「権力が問題化される」ということそれ自体の問題性がよりよく見通せるのではないかと考えられるのである。
【3】それにしても、なにゆえ社会学と家族療法との間にこのような違いが生じるのだろうか? この点について、以下の考察やや先取りする形になってしまうが、ごく簡単に確認しておこう。
 そもそも、人間のコミュニケーションを対象とする理論は、その理論的営為自体がコミュニケーションであるために、しばしば対象との間に共振を生じさせてしまう(7)。例えば、経済学者が株価の変動についてなにがしかの診断を下すと、実際にそれにしたがって株価が上下したりするように(あるいは、「ホーソン効果」、「予言の自己成就」現象などを想起せよ)、理論は、自らの外部にある対象を客観的に記述・説明するというよりは、むしろその営みにおいて多かれ少なかれ対象のあり方に影響を及ぼしている。したがって理論的営為は、それが対象とする諸々の営みと同じ平面に属しているのであり、その対象に言及(記述・説明)することによって、結局のところは対象を現にあるようにあらしめている自分自身の作用に言及しているのである。その意味でおよそあらゆるコミュニケーションの理論は、ルーマンがいうように自己準拠(言及)的(self-referential)であることを免れない(Luhmann,N.[1980=1991])。
 けれども、理論と対象とが共振し、自己準拠的な関係を形成するといっても、それぞれの状況に応じてその共振関係は見えにくかったり、見えやすかったりする。家族療法においては、理論家が、臨床の場を対象となる家族システムと共有しているため、理論が対象を産出・加工しているという事情が意識されやすいのに対して、社会学の場合、対象との共振関係は様々な間接的経路をたどって実現されることになるので、その事情が見通しにくい(8)。そして家族療法のもつこの独特の敏感さ(ギデンズの言葉でいえば「反省性 reflexivity」)が、初期においては権力概念を棄却せしめ(「権力というのは所詮理論家の構成物、認識論的な誤謬に過ぎない」という形で)、今日においては逆に権力概念を再浮上させている(「権力概念を棄却するという選択自体が対象にたいする権力作用なのではないか」という形で)のである。つまり社会学に比較して相対的に高度の敏感さ=反省性を有していたがゆえに家族療法理論において権力問題はある反転−−しかも後で見るようにこの反転はそれ自体奇妙な逆説をはらんでいるのだが−−を経験することになったわけだ。
 ではこのような反転はどのようにして生じたのだろうか? これが以下の考察の課題となる。

2、 権力問題の主題化:三つの潮流

【1】家族療法における権力現象の主題化は、80年代以降に生じた大きな理論的変動の一環として生じてきた。この変動を代表する理論家リン・ホフマンは、自分がかつてのベイトソニアンの立場から、現在の物語論的な立場に方向転換していった背景として三つの潮流をあげているのだが(Hoffman,L.[1990])、それらは同時に権力現象を前景に押し出したものでもあった(9)。そこでその三つを見てみよう。
 第一の潮流は、生物学的構成主義(constructivism)から社会的構成主義(construction)へという流れだ。前者は、フォン・グレーザースフェルト、マトゥラーナ、ヴァレラなど生物学系の理論家に代表されるような、*神経システムが自己準拠的に外界の現実を構成している*と考える立場であり(Watzlawick,P.[1984]に寄せられた論考を参照せよ)、後者はグーリシアンとアンダーソンに代表されるような、*言語的相互行為のシステムが自己準拠的に外界の現実を構成している*と考える立場である(Anderson,H./Goolishian,H.A.[1988])。ホフマンは、前者の立場が生物学的個体の水準で終始する点に不満を感じ、コミュニケーションを基軸にすえる後者の−−「社会的解釈過程と言語・家族・文化の相互主観的影響力の方をより重視」する−−立場へシフトしていった(Hoffman[1990:2])。このような立場変更は彼女だけに限られるものではなく、例えば、ドゥ・シェーザーによるコンストラクティヴィズム批判も同趣旨のものだ。
「治療的文脈においては、Von Glasersfeldのラディカル・コンストラクティヴィズムも、構成主義一般と同様、客観主義から袂を分かっているが、この種の構成主義は、知る人を認知化する個人とすることで自然に主観性を保持する。Von Glasersfeldのラディカル・コンストラクティヴィズムは、十分にラディカルではなく、もう一度、個々の認知化する主体であるクライエントのまわりに、方法論的バウンダリーを引くように思われる。」(de Shazer,S.[1991=1994:77])
ドゥ・シェーザーの考えでは、「治療的文脈にまつわる方法論的バウンダリーが問題とされるとき、もっとラディカルな*相互作用的*構成主義が必要とされる」(de Shazer[1991=1994:79])のである。
 このような批判から帰結するのは、現実構成が個人的な過程ではなく、本質的に社会的な過程であるということ、したがってどのような現実が優勢になりどのような現実が周辺化されるのかは、各個人に帰属される選択によってではなく、その社会過程に働いている力によって説明されなければならないということだ。とすると治療システムもまたこのような社会過程(言語ゲーム)の場であるから、当然そこにも、諸々の現実の中からあるものを選択し別のものを抑制・潜在化する力が働いていると考えられる。このような認識から治療システムの内部に働いている権力への問いが生じるのである。
【2】ホフマンが指摘する第二の潮流は、ファースト・オーダー・サイバネティクスからセカンド・オーダー・サイバネティクスへというそれだ。前者が、セラピスト(観察者)とクライエント・システム(観察対象)とを分離されたものと考えるのに対して、後者は二つが一つのシステムを構成している、と考える。すなわち「セカンド・オーダーな見方とは、セラピストが変化を必要としているもののうちに自分自身をも含んでいるということを意味しているのであり、彼らは外部に立っているのではない」ということだ(Hoffman[1990;5])。セラピストは、彼(女)自身がシステムを構成する一要素である以上、クライエント・システムとの間に様々な相互作用を取り結んでいるのであり、セラピーにおいてはそれを考慮に入れなければならないのである。
 アトキンソンとヒースはこのことを別の角度から次のように述べている。
「主要な関心は次のような考え方だ。ファースト・オーダー・サイバネティクスにおいては、観察者は観察対象のシステムの外部にそれとは離れて存在し、観察者のシステムへの参加を考慮に入れることなく、システム内部の適応を助けられる位置にあるものと見なされる。このことに潜在する危険性は、もっぱらファースト・オーダーなアプローチは意識的コントロールを過度に強調することになるのではないか、ということだ。」(Atkinson,B.J./Heath,A.W.[1990a:145])
この視点から彼らは、セラピストの目的志向性(自分の意図したとおりにクライエントを変化させようとする傾向)や意識的コントロールへの傾斜を戒める。またドゥ・シェーザーも同じような観点から従来型の(MRI的)構成主義を次のように批判している。
「MRI的構成主義には、おおかたのセラピー・モデル/ヴァージョンに共通している、セラピストとクライエントの間の、そして主体と客体とのあいだの方法論的バウンダリーが保持されているように思われる。」(de Shazer[1991=1994:87])
このような批判から帰結するのは、治療システムにおいてセラピストはそのシステムの一部であること、したがってセラピーの場ではクライエント・システムばかりでなく、セラピストとクライエントとが構成する治療システムの全体をも考慮の対象とすべきだということである(10)。そもそもセラピストは治療システム全体をコントロールできるような特権的な位置を占めることはできず、その点に関してはクライエント・システムと全く同様に限定された視野しかもっていないのである。とすると、同じように限定された視点でありながら、なにゆえ治療システムにおいてセラピストのそれがクライエントのそれに優先することになるのか、という問題が生じることになる。この問いが、セラピストが権力を行使するという事態への敏感さを高めるのである。
【3】ホフマンが上げる第三の潮流は、フェミニズムのそれだ。彼女は、かつての自分の立場を「エコロジカル・ファシズム」と呼びながら、循環性・相互性といった概念を、男性と女性との間にある構造的不平等を曖昧にしてしまうものとして退けている。すなわち、相互的・循環的因果関係のもとでは、暴力をふるうものも暴力を被るものもともに同じシステムに属し、それぞれ責任の一端を負うべきものと考えられるので、結果的に暴力をふるう側を免責する傾向があると理解されるのである。例えば、ミラノ学派のグループは先に引用した著作の中で次のように述べている。
「倫理主義は言語学的モデルが直線的であるがゆえに、言語に固有のものである。たとえば、十五章で見るように、無骨で暴君だった昔の父親の役割を演じていた若い女性のIPに出くわしたとき、現実の父親の無能さや受動性を『病理』の原因と考え、知らず知らずのうちにその父親を倫理的にみがちだが、円環的モデルからすると、二人の行為は同一ゲームを単に補足し合っている機能と考えることができる。」(Palazzoli et al.[1975=1989:54])
ここでは父親を娘の苦しみの「原因」であると考えてはいけない、二人の行為は相互に補足し合っているのだから、とされているのであるが、これでは女性が構造的に被っている不平等や暴力を相互性・循環性の名の下に隠蔽することになってしまうだろう。
 そしてさらに進んで、セラピーの場でクライエントに与えられる物語もまたしばしばこの構造的不平等を隠蔽する危険性がある(Towns,A.[1994]、Hare-Mustin,R.T.[1994]等を参照せよ)。例えば、ヘア=ムスティンはこの点について次のように述べている。
「構造的な不平等は治療的会話にも影響を及ぼす。何が語られ得るのか、誰がそれを語り得るのか、これは権力の問題である。」(Hare-Mustin[1994:23]) 「かくして、治療的会話−−それはこれまで『開かれた会話』として描き出されてきたのだが−−は、他の日常的実践と同様にそれでもやはり優勢なディスコースの内部で行われるものなのだ。」(Hare-Mustin[1994:31])
 このような批判から帰結するのは、セラピーといえども外部の政治的=イデオロギー的な過程(例えば性差別的・家父長制的言説の優越)からは自由ではないということ、言説の選択は善悪ではなく力によって決定されているのだということ、したがって外部社会において優勢なディスコースを無批判にクライエントに受容させてしまうことがないように注意しなければならないということだ。こうして現にヘゲモニーを握っている言説に対して、異を唱えるグループが存在しているということ−−フェミニズムはその中の一つである−−このことが、治療システム内部での権力関係を問題として浮上させることになるのである。
【4】家族療法において、権力現象は以上の三つの潮流の交差する地点で問題として前景にせり出してくる。そこで、「権力が問題になるとはどのような事態であるのか」というはじめの問いに対して今やこう答えておくことができよう。権力が問題になるのは以下の認識と信憑が成立しているような状況においてである、と。
(1)第一に、現実構成が選択の問題であること(別様であり得ること)、そしてその選択が社会関係の所産であるということが認識・信憑されていること。
(2)第二に、観察者が観察対象と同権的に同じ一つのシステムに内属していること、したがってシステムをトータルに把握し得るような外部の視点には誰も立てないということが認識・信憑されていること。
(3)第三に、異なる現実構成の間で衝突・対立があること、そしてその対立は善悪の基準によってではなく、力の争いによって決されることが認識・信憑されていること。
この三つの条件がそろうとき、認識論的には権力という概念を棄却してきた家族療法においてさえ、なお「権力」というタームを用いなければ語り得ないような現象が見出されてしまうのである(11)。
 このような認識と信憑は、家族療法の理論的展開から内在的に生じてきたものであるばかりでなく、社会全域に生じつつある次のような変動、いわば「選択地平の全般的偶有化」とでもよぶべき変動を示唆するものである。
 ある行為者が、他の行為者の行為に対して何らかの行為を接続させようとする場合には必ずその行為選択が準拠すべき前提=地平が必要となる。というのも、何らかの前提=地平によってはじめて可能な選択肢の集合がそうでないものから区別され構成されるのであり、この選択肢集合の構成なしにはいかなる選択も実際には遂行しえないからだ。このとき行為者各人にとってみればこの選択前提=地平は所与のもの、自らの選択に先立つもの、したがってそれ自体は選択の対象とはなりえないものとして現れるであろう。またそのように既定かつ変更不能なものとみなされるからこそ、それは選択の前提=地平として有効に機能し得るのである。従来の家族療法の場合を考えてみると、(1)現実構成の選択が何らかの外的な(例えば神経システムなどの自然科学的な)根拠を持つこと、(2)セラピストがシステムをトータルに把捉する超越的な視点を占めていること、(3)現実構成の善し悪しがある基準に基づいて判別され得ること、等の信憑が治療的な行為接続(例えば治療的会話、諸々の介入技法等)の前提=地平となっていた。したがってセラピーとは、つまるところそれらの前提のもとで選択肢集合を再構成し、クライエント・システムに現実構成の仕方を選択させ直す過程であったと理解することができよう。
 しかし、現代社会においては次第にこの前提=地平自体が、それ自体選択可能な、したがって本質的に偶有的な事象として主題化されていく。すなわちこれまで既定的で変更不能な前提とされてきたものが、実は選択の所産であったのだと信憑されるようになり、その選択のあり方自体が問題として感じられるようになっていくのである(例えば、性別役割分業批判や夫婦別姓の主張などを想起せよ)。権力というタームは、ここから生じてくる感覚の落差(これまで所与の前提と考えられてきたものが実際には選択の所産であったということ)、およびこの落差を埋め合わせるだけの十分な正統性が欠如しているという感覚(自分たちのあずかり知らぬうちに選択が終わっていたということ)、これを表現するために用いられはじめると考えることができる。だから、このような権力をめぐる語りは、「一見自明で自然に見える前提」が「実は選択の所産(別様であり得るもの)であり」かつ「正統性を欠いている」という論法で、不可視の権力を可視化してみせるというスタイルを取ることが多い。家族療法において、先の三つの前提が偶有化されはじめるのにともなって権力が主題化されるのも、同様の過程をふんでのことなのである(12)。
 けれども前提=地平は、それ自体が選択の対象として主題化されないかぎりにおいて行為選択を可能にするのであった。とすると家族療法において権力が主題化されるということは家族療法自体の困難を予告してはいまいか? 次節ではこの点について考えてみよう。

3、 権力問題の困難:三つの戦線

【1】前節で見た三つの潮流は、80年代以降互いに重なり合いながら権力現象を主題化してきたのであるが、それらが理論的に純化されていく過程で次第にお互いの間の齟齬をあらわにし始める。それにともなって、権力問題ひいては家族療法それ自体が、ある困難に見舞われることになるのである。以下、三者の間に引かれた議論の戦線を見ていこう。
 第一の戦線は、社会的構成主義とセカンド・オーダー・サイバネティクスとの間に引かれているそれだ。両者がその立場の違いを明確にしているケースとしてここではFamily Process誌上で行われたアンダーソンとグーリシアン(社会的構成主義)およびアトキンソンとヒース(セカンド・オーダー・サイバネティクス)との論争を取り上げる。後者の論文(Atkinson/Heath[1990a])に対するコメントにおいて、アンダーソンらはまずサイバネティクスが、物事のあるべき姿について理論家が特権的な知を有していると前提しているのではないか、と批判する。だとすると、それは「社会システムの目的論というパーソンズ的観念とまったくパラレルであるように思われる」(Anderson/Goolishian[1990:159])。そもそも家族療法の対象が、意味を生産する人間、すなわち解釈し理解(あるいは誤解)し会話する人間である以上、それをありのままに−−特権的知に依拠することなく−−概念化できないサイバネティクスは人間的事象を扱うのには適さない理論なのだ、と彼らは主張する([159])。
 さらに彼らの批判は、同様の観点から権力の問題にもおよぶ。すなわち、システムに関する特権的な知を前提とするがゆえに、サイバネティクスの理論家たちは「自分たちが非階層的な立場をとることができるような、そしてセラピストの権力行使を放棄し得るような、そういう位置を占めていると考えているが、このとき彼(女)らはあまりに多くのやり方で自分自身を欺いているのだ」([160])。これは権力現象の隠蔽である。アンダーソンらの考えでは、むしろセラピーを言語的な相互行為、会話的な出来事として把握すべきなのであり、そうすることで「いわゆるセラピストの権力行使と専門性の多くは単純に言語のレトリカルな使用、すなわち影響を与え説得するための言語使用」として明示的に主題化できるはずだ([161])。
 これに対しアトキンソンらは、サイバネティクスが何ら特権的な知識を前提にするものではなく、むしろ「サイバネティックな思考は、クライエントが自らの生活において意味を創り出す際に、考慮にいれるさせることのできる価値あるリソースである」((Atkinson/Heath[1990b:166]))、と反批判する。また権力の問題についても、権力を消去してしまうのはむしろアンダーソンらの方ではないか、として次のように述べている。
「彼らは、セラピーを(あるいはおそらく人生を)権力の点から描き出すことをやめてしまえば、権力はもはや問題ではなくなるのだ、と主張している。どうやらアンダーソンとグーリシアンは、現実が共有された観念の領域に*のみ*存在していると考えているようだ。このような考え方をするなら、もし権力が現実でないことに同意すれば、それは実際に現実ではなくなることになる。」([166])
このような発想は西欧的なディスコースの伝統に連なるものではあっても現実に即したものとは言えないのではないか、と彼らは指摘する。
 注目してほしいのは、どちらの批判も、それぞれ相手の前提を再帰的に偶有化するという形を取っているという点だ。すなわち、一方は「システムに関するトータルな知は存在しない」というセカンド・オーダー・サイバネティクスの知自体が「システムに関するトータルな知」になっているのではないかという批判であり、また他方は「現実構成は言語的相互作用の中で選択される」という社会的構成主義の知自体が「言語的相互作用の中で選択された」(この場合西欧的なディスコースに属する)ものではないのか、という批判である。このことは、従来の前提を偶有化してきた二つの立場が、どちらも再帰的に自らを偶有化していかざるを得ないこと、そしてその結果権力の所在がしだいに不分明になっていくことを示唆している。
【2】第二の戦線は、セカンド・オーダー・サイバネティクスとフェミニズムの間に引かれている。ここでは、デルとインバー=ブラックの応答およびゴルドナーのサイモンに対するの批判を取り上げる。
 デルは、家族療法がこれまで暴力や権力の問題についてあまりに鈍感であったと指摘し、その原因をベイトソン以来の相互性・循環性の概念に求めた(Dell[1986a])。そこで彼は家族療法の理論を説明の水準と記述のそれとに分けた上で、前者については相互性・循環性という概念が妥当するが、後者については直線的因果性の方が重要な意味を持つ、と主張した。すなわち認識論にとっては前者こそが正しい立場なのだが、有効な臨床的実践にとっては後者こそなくてはならぬものなのである。これに対してインバー=ブラックは、説明と記述をこのような形で分けること自体ある種のハイアラーキー化ではないか、と批判する。というのも「ある文化において最終的な『説明者』となる特権をもった人々は権力を持っている」のであり、「この権力を、それが記述の水準においてのみ存在するという主張によって否定することは、神秘化に寄与するものである」からだ((Imber-Black,E.[1986:524]))。これに対してデルは、説明の方が記述よりランクが上だなどという主張をするつもりは全くなく、むしろ直線的因果性の権利を回復するために記述という水準を明示的に確保することこそが自分の意図なのだと反論した(Dell[1986b])。
 他方、ジョージ・サイモンは、家族療法におけるハイアラーキーを権力概念から切り離して、時間的構造の問題として定義し直す。つまりタイム・スパンの長い出来事が短いそれを含んでいるとき、このネスト構造をさしてハイアラーキーと定義したのである。このときセラピーとは、クライエントがより高次の構造(例えば文化)に適応できるようにその発達を援助することである、とされる(Simon,G.[1993])。ゴルドナーは、これに対して、ハイアラーキーを権力と切り離して定義したからといって権力が問題でなくなるわけではないと批判した。そもそもサイモンはどのようにして文化に対する適応を判断できるような位置を占めることができるのだろうか。あるいはそのような位置を占め得ると考えること自体、いまだ十分にセカンド・オーダーでない証拠ではないだろうか(Goldner,V.[1993:158])。そのような超越的な位置があり得ないことを前提にすれば(そしてそれは本来セカンド・オーダー・サイバネティクスの主張であったはずだ)、どれほど中立的な立場をとろうとしても実際にはセラピストは必ずや自分流の、偏った「真理」をクライエントに示してしまうものであり、したがって権力やコントロールの問題に当事者として巻き込まれざるを得ないのである([160])。
 以上のいずれのケースにおいてもフェミニストの側からの主張は、セカンド・オーダー・サイバネティクスに前提の再帰的偶有化を求めるものだ。サイバネティクスは、その前提自体がほんとうは偶有的なものであるのに、あたかもそれが必然的な知(偶有的ならざる知)であるかのごとくに語っており、これこそまさに権力ではないか、というわけである。ある意味でこれはセカンド・オーダーな思考をより純化したものと考えられよう。だがこの主張は、同時に、どのような地点からスタートしても権力関係を免れることはできないということ、権力はあらゆる関係のうちに遍在するものであり、どのようにしても避けることのできないものであることを含意しており、かえって権力批判の拠点を掘り崩し、権力概念の内実を拡散させ、空虚化してしまっているように思われる。
【3】第三の戦線は、フェミニズムと社会的構成主義との間に引かれている。ここではヘア=ムスティンによる社会的構成主義批判を取り上げよう(Hare-Mustin[1994])。
 ヘア=ムスティンが、セラピー(およびそこにおける権力)について考える際に、最も基本的なカテゴリーとなるのは「ディスコース」というそれだ。彼女によるとディスコースとは「共通価値を共有する叙述・実践・制度的諸構造のシステム」([19])を意味しており、これが一方である現象を視野に浮かび上がらせ、他方で別のものを抑止・潜在化するという形で世界の見え方を支えている。したがって、この価値の選択に応じてある社会において力を持つディスコースとそうでないものとが分岐する。その場合、「ディスコースの相対的優越性・周辺性を測る一つの方法は、そのディスコースによってどのような制度や生き方が支持されているのかを問うことだ」([21])。
 この優越的=支配的ディスコースは、治療的会話をも規定してしまうのだが、社会的構成主義はしばしばその点に無自覚である。すなわち、アンダーソンら社会的構成主義は、セラピストがクライエントの物語行為に参加することによって、新たな物語の共同著者になることを提案していたが、
「しかし、新しい物語の対等な共著者以上のものにはなるまいというセラピストの意図や望みとは関わりなく、共有された言語の中に埋め込まれ活性化された意味は、異なる参加者に異なる権威(著者-性)を与える。構造的な不平等は治療的会話に影響を及ぼすのだ。何について語られ得るのか、そして誰がそれを語るのか、それは権力の問題なのである。」([23])
例えば「男性の性衝動は抑制できないものだから、男性の浮気はある程度大目に見るべきだ」といったようなディスコースが治療的会話を枠づけている場合があることを指摘しながら、彼女は社会的構成主義に見られるある種のオプティミズムを批判する(同様の批判として、Towns[1994],Goldner[1993]を参照せよ)。
 以上の批判もまたこれまでのケースと同様、社会的構成主義に対してその前提の再帰的な偶有化を求めるものだ。そもそもアンダーソンらの考えでは、どのような現実が構成されるのか、その選択は、言語的相互作用の過程において遂行されている。この考えを推し進めていけば、「セラピストはクライエントの物語の対等な共著者になり得る」という彼らの「現実構成」もまた、言語的相互作用において選択されたものであり、偶有的なものであるはずだ。にもかかわらず、これが必然的な(最良の)ものであるかのごとくに主張することは、現に作用している権力を隠蔽することになるのではないのか、ヘア=ムスティンはそう批判するのである。けれども、このような再偶有化は、権力をさらに捉えにくいものにしてしまうように思われる。実際、彼女の提案する処方箋が、差異の尊重(優越する物語へ他者を強制しないよう注意すること)、およびドミナント・ディスコースに自分がとらわれていないかどうかつねに自覚的であること、といった「心がけ論」に終始していることからもそれはうかがわれよう。ここでもまた権力概念は拡散・空虚化してしまうのである。
【4】以上、三つの潮流の間の齟齬を確認してきたわけだが、ここに一貫して見られるのは、それらが偶有性を再帰的に推進し合いながら、結果として権力概念をしだいに捉えにくくしていく、という過程である。
 もともと今日の社会で権力が問題になるのは、選択の前提が全般的に偶有化されていくことの副産物であった。これまで自然で自明、必然である(こうでしかあり得ない)と思われてきた前提が、実は偶有的な(他でもあり得る)ものであったという落差の感覚、そしてこの落差を埋めるだけの正統性が欠けているのではないかという感覚、このような感覚の広がりに応えて「権力」という問題の枠組みが浮上してきたのであった。家族療法における三つの潮流はいずれもそれぞれの理論的立場からこの問題枠を具体化したものに他ならない。
 ところで、ある前提を偶有化するためには、それを偶有的なものと見なすための前提、つまりそこから見ると当該の前提を選択の対象と見なし得るようなそういう視点が必要だ。この視点の取り方に応じて、同じ偶有化でもどのような形で遂行するのか、そのスタイルが決まる。家族療法において三つの潮流を分岐させている基本的命題がそのような視点に当たるだろう。つまりある前提を偶有化するためには、別の前提−−それはおそらくより抽象度の高い(メタ的な)ものになるはずだが−−に立つ必要があるということだ。
 けれども、どのようなスタイルを取るにせよ、これらの前提=視点は偶有化の過程を自分自身に再帰的に適用できるような性質をはじめからそなえている。もしこのような再帰的な偶有化が生じたならば−−そしてそれは上で見てきたように現に生じている−−、その前提は失効してしまい、したがってそこから立てられた権力という概念枠も失効してしまうことになろう。権力はかぎりなく抽象化し、遍在性を高め、それでいて具体的な内実をますます不分明にしていく。家族療法において生じている事態はまさにこれだ。
 むろん、再帰的偶有化の可能性をそなえているからといって実際にそれが起こるとはかぎらないのだが、社会全域において行為前提の偶有化が急激に深化・拡大するならば、それにつれて再帰的偶有化への圧力は高まるであろう。家族療法の三つの潮流の間に生じてきている齟齬は、社会がこのようなフェイズにすでに入りつつあることを示すものと考えられる。

4、 総括

 権力が問題になるとはどのような事態であるのか、というはじめの問いに対して、先に2【4】において三つの方向からの偶有化の進行がその答えであると述べておいた。けれども前節において見てきた経過をふまえると、その過程は同時に権力という問題枠を失効させる条件でもあったことがわかる。行為地平の偶有化の進行は、権力を問題として浮上させるとともに、ある段階からその問題枠を失効させる条件へと反転してしまうという逆説的な過程なのだ。権力が問題になるという事態は、したがって正確に言えば、偶有化が十分進行するまでの途中経過であり、同時に自分自身を脱問題化していく過程なのだ、と答えることができるだろう。
 にもかかわらず、今日の社会にはいまだあからさまな暴力や権力(と呼ばざるを得ないような現象)が厳然として存在している。これをどのように問題化して、対処していくのかは、今後に残された課題である。

【注】

(1)以下ことわりのない限り「権力」とは英語のpowerの訳語として用いる。厳密にいえば英語のパワーと日本語の権力とは意味あいが異なるのだが、本論ではその差異が重要となるような場面はないと思われるので、あえて権力というタームで一貫させた。
 また近年の家族療法の変容については浅野[1994]を参照していただきたい。
(2)後で見るように、家族療法における権力論はしばしばフーコーに準拠して展開されるのだが、社会学においても80年代以降フーコーの権力論が受容されている。これを家族療法の場合と比べてみることは興味深い課題であるが、ここではそれはおいておくことにする。
(3)実体や同一性に対して、関係や差異を一次的なものと考えるような認識を指すものと考えてもらいたい。システムの要素は、したがってその周囲との関係、文脈から切り離して同定することはできない、とされる。
(4)この場合、どちらが原因かというのは、どこで現象を区切って見るかというパンクチュエーションの問題にすぎない(Watzlawick,P.et al.[1967])
(5)ベイトソンの共同研究者であり、家族療法の始祖の一人、ジェイ・ヘイリーはこの点でベイトソンとは意見を異にしていた。彼は権力を人間にとって避けることのできない本質的な現象と考えていたのである。デルの整理によれば、。同様の分裂はミラノ学派にもあり、グループは後にベイトソン型の人々ととヘイリー型の人々とに分裂することになった(Dell[1989])。
(6)権力と物語や会話の関連については、ホワイトとエプストンの議論を参照にされたい(White,M./Epston,D.[1990=1992])。
(7)このような事態をさしてギデンズは「二重の解釈学」と呼んでいる。つまり解釈しているのは研究者だけではなく、研究対象となる人々もそうだ、ということだ(Giddens,A.[1984])。
(8)むろん、このことは家族療法が社会学とは異なってマクロな状況を理論対象からはずすという領域限定にともなうものである。
(9)物語論的な立場というのがどのようなものであるのかについては、浅野[1994]参照。
(10)これまでにも似たようなことは言われてきたが、それは必ずしも徹底して考えられてはこなかった。
(11)ここで見出されてしまう権力現象とは、これまでの権力概念とは質的に異なるものである。あえて言えばそれはフーコー的なそれであるということができるかもしれない。多くの家族療法理論家たちがフーコーに依拠していることがそれを示唆していよう(Hare-Mustin[1994],Towns[1994],Flaskas/Humphreys[1993],White/Epston[1990=1992]等を参照)。その権力概念を特徴づけるのは、権力の不可視性・抽象性・遍在性であるが、このような特質がどのように生じてくるのかについては後段の議論を参照。
(12)ギデンズのいう関係の民主化もこの文脈で理解すべきである。実際に関係が民主化されることよりも、実はまだ十分に民主化されていなかった(もっと民主化され得る)、という感覚が共有されることが肝要な点だ(Giddens[1994])。
(13)この三つをきちんと識別している点でホフマンの整理はすぐれている。例えば同じ状況を整理したリアルの議論では社会的構成主義とセカンド・オーダー・サイバネティクスが一つの陣営をなすかのように描き出されている(Real,T.[1990])。

【文献】