昭和中期、日本は驚くべき高度経済成長を遂げ、1970年代には国民総生産は倍増どころか4倍増となりました。ところが、圧倒的な経済成長のさなかでも、保育所はいっこうに足りてはいなかったのです。
このままでは働けない。保育所がないなら自分たちで作ろう。東京では親たちが声をかけあい、ともに保育をするグループを作り始めました。区役所職員、教員、医師、映画制作者、農家、施設職員、会社員……。親たちの職業はさまざまでしたが、理想の保育を求め、だれもが交代で保育に参加しました。
保育グループはまもなく「共同保育所」をかたちづくります。それは、現在の保育園のような「保護者が預け、保育者が預かり、市区町村が運営する行政サービス」ではありませんでした。共同保育所では、働く人が、保育に関わること、共に生きること、そのものを大切にしていたからです。
思えば、なにひとつ身にまとわずこの世に生まれ落ちてきた赤ちゃんを抱き上げ、洗い、手渡すのは、母子ではなく、まわりの人の役割でした。生み育てるとは社会の共同作業。保育とは、共生する社会を創るのにふさわしい営みかもしれません。
共同保育所の目指す保育は創意工夫に富んだものでした。有機野菜の給食、手作りのおやつ。豊かな自然環境のなかで過ごす野外保育。遊びのテーマを子どもがきめる自由保育。子どもは四季を観察しながら毎日往復1時間を苦もなく歩き、広々とした公園や川で過ごしました。小さな園舎でも、異年齢の子どもたちがいたわりあう心が養われます。東京都に50カ所ともいわれる共同保育所は、それぞれの保育の考えを打ち出し、多様で豊かな保育を展開していきました。「共同保育所運動」の始まりでした。
都内の共同保育所は、ともに連絡をとりあい、保育のノウハウや課題を共有していきます。こうしたなか、1970年に東京都が保育室制度を導入。民間委託の先駆けとして、小規模保育に東京都から補助金が出るようになりました。共同保育所は保育室として、認可保育園に入れない親子のライフラインの役割も担い始めました。1971年、吉祥寺に「かっぱの家保育所」が、1974年には世田谷(現在は府中)に「ごんべのお宿ほいくえん」が開所します。小金井市でも1974年に保育室制度が導入されました。この年に、「回帰船保育所」は櫂を漕ぎ出したのです。
肢体不自由児の通う養護学校の教員として勤めていた安藤能子さんは、1978年に回帰船保育所に参加しました。翌1979年に「子連れ保母」のひとりとして保育に加わります。子どもたちは安藤さんを「先生」と呼ばず「アンドー」と呼びました。共同保育所を前身とする保育室や認証保育所のいくつかには、いまもこうした呼びあい方をする文化が見受けられます。名前で呼びあうことで、『ここでは人として対等につきあうよ』というスタンスを子どもに示したのです。
「私は能子(よしこ)という名前ですが、よっこちゃん、と呼ばれると、ぱっと気持ちが幼年期に戻るんですよ。だれもがむかしは子どもだった。」
人間のルーツは幼年期にある。人生の荒波に揉まれ、打ちのめされたときも、成功に心躍り、つい奢ったときも、自分自身を取り戻し、踏みとどまるうえで幼年期は大切で、だからこそ幼年期の保育は大切なのだと安藤さんは話します。
そのころ保育室は「ムニンカ」と呼ばれました。認可外保育所が「無認可保育所」と呼ばれていた頃の俗称です。園庭がない、子どもが少ない、有資格者の保育士が少ない……。ムニンカを保育行政のアウトローとみなして、敬遠する親もいました。いっぽうで、「安心」の認可保育園を希望しても入れなかった保護者は、顔面蒼白でムニンカに駆け込みます。行政が拾いきれない子どもの最後の受け皿が、保育室でした。
回帰船保育所で育った子どもは臆せず堂々とものをいい、いつもオープンマインドだといいます。大きい子どもと小さい子どもが助けあう暮らし。はらっぱや野川での毎日の外あそび。和食中心の献立と手作りのおやつ。小さなことなら自力で乗り越えていけるたくましさ。小規模保育ならでは異年齢保育を進めてきました。子どもが自力で取り組む姿をぎりぎりまで見守るには、保育者の力量がものをいいます。子どもと街路を歩き毎日外あそびに出かけるのは保育者にとっては心身ともに重労働ですが、子どもにとっては最高の保育環境でした。
回帰船保育所は、小金井南エリアの公園、川、樹木や草花、寺社仏閣など、あらゆる地域資源をどんどん保育に取り込んでいきます。在籍した人はお互いを「大家族」と呼びあいました。保育を通じた深い信頼関係が、まちに築かれていきました。
2010年前後に、都内の小さな保育室が次々と立派な園舎を新築しました。長年の保育実践を活かした間取り、モダンなデザイン。すべてが子どものための建築でした。追われるように古い借家を転々とした年月が、保育者の脳裏に走馬灯のように甦ります。数十年のあいだに保育室に在籍した「大家族」が力を合わせ、ついに「わが家」を実現したのでした。ただし水面下では、安藤さんたち保育者に、ずっしりと重い負債が残されたのです。
ことの発端は、東京都の制度改変でした。1996年に東京都は、保育室への助成金見直しの意向を示しました。見直しとはすなわち「これからは、保育室に在籍する0-5歳児のうち、3、4、5歳児の子どもには東京都はお金を出しません」というものでした。いくつかの保育室には異年齢保育のノウハウがすでにあり、親子が望む限り5歳児まで保育する能力があるのですが、制度とはあとからやってきて大ナタを振るいます。ある5歳の保育園児に「小さい保育室では、3歳になったら、よそへいくんだって」と話すと「なんで?」と首を傾げました。自分がいま安心できる居場所からよそへ移るのは、子どもの本意ではないようです。
1996年以降、就学前まで子どもを育てられる保育室は、定員いっぱいフル回転で運営しても赤字が出るようになりました。職員を減らせば子どもに向き合う人が減り、保育の質が落ちてしまいます。職員の賃金カットで急場をしのいでも焼け石に水。保育室は火の車となりました。
安藤さんはまずは「保育室連絡会」を作りました。市内の12の保育室に呼びかけ、希望した人の連名で、小金井市と対話を始めます。
安藤さんは続けて、小金井市の諮問する児童福祉審議会の委員も引き受けます。1999年10月からは大学教授や東京都職員やPTA、学童保育など地域の父母たちとともに、保育室施設長として名を連ね、市役所に日参しました。審議会では市長に頼まれて、子育て支援施策の策定に向けた「答申」と呼ばれる意見書を1年がかりでまとめたのです。答申は9章に渡り、書籍一冊分のボリュームがありました。2001年に、この答申をもとにした市の行動計画「のびゆくこどもプラン小金井」ができあがったときには
「いいのができたじゃない!」
と市役所の人々をねぎらい、手を取り合って喜んだものです。「のびゆくこどもプラン」はそれからも受け継がれ、平成13年から平成31年にわたる長期計画となっていきます。このプランの冒頭では、次期計画に引き継がれるたびに、必ず「子どもの権利」がうたわれているのですが、この「子どもの権利」こそが、1999年児童福祉審議会の答申で安藤さんたちが打ち出した、基軸となる理念でした。
保育室は行政から一目置かれるようになりました。市長室で当時の市長と額をつき合わせ、「このままでは親が職を失い、子が保育を失うんですよ」と親子の切迫をじかに伝えた安藤さんの勇姿は、いまも語り継がれています。保育室連絡会の声は、ついに小金井市に届きました。市内の保育室については、東京都がカットした3歳児以上の保育室在園児の補助金を、小金井市が肩代わりすることになったのです。
「発言し、対話を続ければ、きっと届くんだな。」
安藤さんはそう感じました。国や都の制度は、現場の実情からかけ離れていることもあります。そうしたとき、日蔭でひっそりと諦めるのではなく、自分たちのまち小金井市と対話を続けました。そこには、市民が行政と共に地域を創り上げる実感があったと、安藤さんはいいます。
しかし東京都が変えたのは、助成金だけではありません。2001年の認証保育所制度の導入に伴い、2011年には保育室制度そのものが廃止されることがわかりました。「少人数の保育室は認証保育所になりなさい、そのためには5年以内に設備と面積と雇用の基準を満たしなさい、さもないと補助金は出しません」というのです。保育所の運営とは、都道府県と市区町村からの補助金で、かかる費用の半分以上を賄っています。補助金がなければそのぶんは保護者が負担するということになります。広い認証保育所を新築するか、月額10万円を越える保育料を支払える保護者だけを集めるか、保育室を閉じることになるでしょう。
いろいろ検討すると、保育を続けるため認証保育所になるには、園舎を「新築」しなくてはならないのでした。新築しなくても賃貸物件を探せばいいじゃないか、とみな思いました。しかしたとえば認証保育所の基準では、「障害者用トイレの設置」「建築確認検査済証の提出」を義務づけますが、そうした設備や書類を持っている一戸建ての賃貸物件が、そもそもありません。安藤さんたちは小金井の南エリア50物件を探しまわったといいます。
新築にかかる費用を借入するのは、だれでしょうか。ほとんどの保育室は、保育者のひとりが施設長として登録しています。つまり、建物や土地の借り入れは都でも市町村でも企業でもなくNPO法人回帰船保育所が行い、連帯保証人は施設長個人なのです。設計施工費の寄付を集め、不足する資金を借り入れて返済するのは安藤さんなのでした。
小金井市の肩代わりで当面の補助金は満額出ましたが、まもなく保育室制度はなくなります。
「これからどうする?」
「回帰船をなくしたくない」
大人になった卒所生から声があがっていました。定員26名の小さな保育所を続けるために、回帰船保育所は認証保育所移行に向けて動きだします。同じころ、1970年代に開所した吉祥寺の「かっぱの家」、府中の「ごんべのお宿」など40年の歴史を持つ保育室も、NPO法人化と認証保育所移行、そして園舎の新築に向けて、力強く歩みだしていました。
追い風も吹きました。小金井の保育室の継続危機を報じる新聞記事が話題を呼び、国立大学法人東京農工大学から声がかかったのです。農工大では、ちょうど、大学内の敷地に保育所を作りたいと考えているところでした。
2010年前後には、国内の大学の福利厚生や女性研究者のキャリアアップ支援を謳い、学内保育所設立の流れが現れました。各大学に保育所が次々とオープンします。委託を受けるのは、大手資本の入った企業、病院や官公庁に開所実績のある企業…。そのなかで、回帰船保育所の名が浮上しました。
東京農工大学が敷地を貸し、回帰船保育所が園舎を建てることになりました。回帰船保育所の長年の歴史や保育行政への貢献を評価した地元金融機関の多摩信用金庫は、安藤さんに1千500万円の融資を申し出ました。東京都からはおよそ2千万円の内装費用の補助金が出ます。不足分のカンパを募って、総工費約5千万円が集まりました。設計と施工は卒所生の親が引き受けました。
「回帰船をやめるわけにはいかないでしょう。」
60歳になってから1500万円の融資を受ける。おいそれとできることではありません。後に続く人々を思い決心を固めるいっぽうで、安藤さんには不安もありました。
「お金用立ててもらっちゃったけど、とてもとても実現できないんじゃないか。」
そしてまた、こうも思いました。
「これを返すまでは、私は生きていないといけないんだなあ。」
これほど多額の借金の保証人となったのは安藤さんにも生まれて初めてでした。
「保育は、半分が補助金だからビジネスとしては手堅い。それでも責任者はいつも最後ですよ。財政が厳しくなったらまずは独身の若い保育士の給与の支払が優先です。若い人には頼るものがないんですから。」
2012年。回帰船保育所は落ち着いた足取りで大きな設備投資を自力で成し遂げました。新しい園舎で生活を始めた子どもたちの笑顔を見届け、安藤さんは保育の現場から身を引きました。回帰船保育所は、それからも常に定員いっぱいの子どもたちとともに安定した経営を続けています。
しかし不思議なことに、このあとも制度はふたたび転じます。2015年に国の始めた「新保育制度」では、0、1、2歳児20人未満の小規模保育には補助金を出すといいます。「地域型保育給付」と名前こそ変わっていますが、これはあたかも、東京都が2011年に廃止したばかりの保育室制度を、制限つきで復活させているかのようでした。設備基準は緩和され、新規事業者の手軽な保育参入を推し進めるものとなっていました。都内50か所の保育室がいっせいに新築か廃業かを詰め寄られたのはついこのあいだのことです。
制度は数年の間に二転三転しますが、回帰船の保育はたゆまず続いています。親子を守り、保育行政の水際を食い止めて来た安藤さんは、制度設計だけで保育環境が作られるとは考えません。「保育行政の主体はどこにあるのでしょう。国が担うはずの保育行政が、都道府県におろされ、市区町村におろされていきます。」
保護者はどうでしょうか。行政サービスを子どもに与えるための入所手続で疲れきって、子どもが育つ環境については制度まかせ、行政まかせ、保育者まかせにしてはいないでしょうか。
1970年代に保育所が足りない。そう痛感して40年間保育を続けた今、2010年代にもやはり保育所が足りない。保育運動は社会を変えられたのでしょうか。安藤さんは「今も昔もずっと、保育所はいつも足りていない。それはある意味当たり前」と言います。
「すべての子どもに、保育所が必要なんです。親がひとりきりで子どもを育てられるわけがない。子どもには生きものとしてのものすごい勢いがある。うるさいし、お世話はたいへん。生理的に疲れます。孫と1日接していると、私だって『なんでなんでって聞かないでよ!』って思いますよ。むしろ子どもを保育所に預けられない、専業主婦層こそたいへんです。住宅ローンをどっさり借りて、いくらマイホーム作ったって、保護者だけで子ども育てるなんてムリ。」
「保護者の個人の能力が足りないから、育児に困難があるのではないんです。複数の大人と複数の子どものいる社会が、子どもの育ちには必要。けれど、子どもがそのように『育つ権利』は、40年間ずっと不十分です。」
女性の活躍のためでも、日本の経済成長のためでもない。子どもの『育つ権利』のための保育。昭和から平成、そしてその先へ、どこまでも続く海は、厳しく、果てしなく、途方もなく見えます。
「そうだね。ひとりひとりが不断の努力を続けるしかない。そう、憲法に約束したんですからね。」
■日本国憲法第12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
■小金井市子どもの権利に関する条例
https://www.city.koganei.lg.jp/smph/kosodatekyoiku/kenri/kkkj.html
2009年に小金井市が条例を制定。子どもの育つ権利を謳っている。子どもの基本的人権を国際的に保障する「子どもの権利条約」は1978年にポーランド政府から草案が出され、1989年に国連総会で採択。日本は1994年に批准している。
1997年、中町4丁目の貫井神社近くに移転した時、卒所した子どもたちが集まって、この看板を共同制作しました。2011年農工大構内に園舎を新築し移転した時も、この看板を運んでいってかけました。園舎は、肌ざわりのよい無垢材で、百年もつという質実剛健な建物です。設計も施工も、回帰船で育った子どもの親でした。絵画、看板、園舎。保育園に関わる子どもと大人の40年にわたる「作品」が巡り巡って、子どもたちの暮らしの場を支えます。
筑前町をぐっと盛り上げる隊Facebookページより ©TOHO CO., LTD.
回帰船保育所理事長・前施設長の安藤能子さん。若かりし日の安藤さんは、横断歩道の向こうにいる人が遠目にすぐそれと気付くほどの、シン・ゴジラ級のエネルギーを放射していたといいます。
「長年保育をやってきましたが、歴史を振り返る気持ちはあまりありませんでしたね。回帰船はいまもリアルタイムに動いているから。すべてを創造しているのは子どもで、子どもが自分の物語を作る場が保育。その一瞬を固定して留めてもしかたがないでしょう。」
40年は長いけれど、この先も海はずっと続きます。安藤さんのことばは潔く、足取りは風のように留まらず、その瞳はまっすぐ前だけを見つめています。
1974年 前原町共同保育所創設
2005年 NPO法人回帰船保育所設立
2011年 農工大構内へ移転、園舎新築
回帰船保育所
http://kaikisen.link/
小金井市中町2-24-16
東京農工大小金井キャンパス内
kaikisen@hyper.ocn.ne.jp