日本においては高度経済成長期以降、「受験戦争」という言葉が一般に定着して久しい。近年ますます激化する一方の受験戦争だが、その影で不登校の増加傾向などといった中高生の心の問題も大きく取り上げられるようになってきた。
その一方で近年、「大学生の呈する無気力症候群」が問題になってきている。単なる怠学とは異なるとされる、「スチューデントアパシー」である。
スチューデントアパシーは、1960年代にその事例が報告されてから日本においても注目を集め、さまざまな立場から研究が進められてきた。しかし、下村(1996)も指摘するように、スチューデントアパシーについての概念の混乱・分類基準の未確定にもかかわらず、下位分類の提案や適用対象の拡大などがなされ、今日スチューデントアパシーの概念はさらに混乱している状態である。
そこで本研究では、スチューデントアパシーの概念について諸論者の意見を今一度整理し、これまでの研究の問題点とこれからの研究の課題を考察する事を目的とする。
スチューデントアパシーという用語は、Walters(1961)が「大学生に見られる、慢性的な無気力状態を示す男性に特有の青年期発達の障害」として、元来精神分裂病や重度のうつ病、脳器質疾患の症状とされていたアパシーを引用し、アメリカで初めて用いたものである。Waltersはその特徴と成因に関して系統的な記述を行い、さらに他の診断分類との鑑別の基準を示し、独自な臨床単位としての可能性をそこに示した。
しかしその後、アメリカにおいてはスチューデントアパシーについての研究は展開が見られず、このことからアメリカではスチューデントアパシーが社会の注目を引くほどの広がりを見せなかったということが推測される。
一方日本では、1950年代の高度経済成長期においての大学進学率の上昇に伴い、国立大学教養学部の大量留年の実態が明らかとなり、大学生の留年の増加が社会的な問題となった。
丸井(1967,1968)は、留年の類型化を行う中で、「自らも明らかに据えられないような空虚感や無感動」を示す一群の留年生が見られることを指摘し、これを「意欲減退型留年」とした。
その後、笠原(1973)がWalters(1961)のスチューデントアパシーの概念を元に、日本の大学生の無気力に関しての概念の明確化を試み、新たな診断分類として退却神経症を提唱した。また、笠原ら(1975)はWalters(1961)の邦訳を発表し、それによってわが国にスチューデントアパシーという名称を定着させた。
1980年代に入り、長谷川(1980)、国分(1980)、石井・笠原(1981)、土川(1981)、笠原(1984)の概説書や概説論文が発表され、ここにスチューデントアパシーに関する初期研究が一段落し、概念の確認段階に入ったといえる。
これと並行して新宮他(1981)、島崎・竹内(1981)、岡庭(1983,1984,1985)、らの大学精神保健関係者による地道な診断、類型化の研究がおこなわれた。さらに、森岡(1981)、青木(1983)、三好(1983)、管・大原(1983)による心理療法経験に基づく考察も行われた。
これ以降、それまでの研究の蓄積を踏まえ、独自の視点を盛り込んだ本格的な研究論文が多数出された。山田(1987)は神経症状とアパシーを等価と見て、Waltersや笠原のスチューデントアパシーを障害としてひとつの臨床的単位としてみる見解に消極的な立場を示した。また小野(1987)はユング心理学的視点から、池田(1988, 1989)は人間学的視点から、青木(1988)は文化論的視点から援助論も含めた事例研究を行っている。
障害の分析が深められる一方、スチューデントアパシー概念の一般的普及に伴い、その適用が本来の特異的障害を示す大学生という範囲を越えて拡大するという現象が生じてきた。例を挙げると、土川(1985)は一般学生のアパシー化に関して論じており、大学生以前の不適応をアパシー心理との関連から論じたものでは、浪人生を対象とした矢花(1986)、中高生を対象とした東京都立研究所相談部教育相談研究室(1987)や田中・笠原(1988)、不登校の分類研究をした岡田ら(1988)などが挙げられる。また、不登校やサラリーマンの欠勤症を含む概念の拡大を試みた笠原(1988)や、アパシーを現代の若者の心性として議論した稲村(1988)の例もある。
このようにスチューデントアパシーの基本的概念が未形成な状態にもかかわらず、さまざまな方向にアパシーの概念は拡大してきた。そこで90年代に入り、スチューデントアパシーに関するそれまでの論点を整理し、概念の再検討を行おうという動きが出はじめた。土川(1990)は笠原と山田の概念の統合を目指し、新たな分類を提案し、はじめてスチューデントアパシーを人格障害と位置づけ、一般青年のアパシー傾向との区別の可能性を示した。また下山(1997)は、行動、心理、性格の3次元に分けた整理、検討をしている。
現在スチューデントアパシー研究は、論点の整理、基本概念の議論、再検討を行う時期にあるといえよう。
(a)情動的動きの減退、無気力、知的無力感、肉体的気だるさ、空虚感、情緒的引き篭もり、社会的参加の欠如が見られる。
(b)無関心は予期される敗北、屈辱、制限に対する心理的恐怖を避ける行動である。
(c)攻撃性や競争的衝動のために他者を直接傷付ける事を避けるための防衛である。ただし、回避によって他者をどうしようもない状況に陥れて攻撃衝動を満たす。
(d)男らしさ形成をめぐる解決しがたい葛藤のため青年期を遷延させている男性の青年期発達の障害である(青年期後期、特に大学2年次に生じ易い)。
(e)価値の尺度を学業達成だけに限定した事の結果生じたものである。
(f)恐怖状況が解決されれば元に戻るものと、長時間続くものがある。しかし、いずれも精神病に近付く事はなく、神経症に近い。
スチューデントアパシーの提唱者であるWaltersの概念は後のさまざまな研究による概念形成において基盤となるものでもある。
Waltersはスチューデントアパシーの概念を精神分析的視点から捉え、父親とのエディプス葛藤から起こる男性性形成の障害であり、男子学生特有のものであると位置づけている。
またスチューデントアパシーの形成因として価値の尺度を学業達成だけに限定した結果として、教育システムとの関連性を指摘している。
さらにWaltersは臨床的経験からスチューデントアパシーが精神分裂病に移行する事はなく、うつ病患者との相違についても、スチューデントアパシー患者は外界から愛情を掴み取ろうとしているのではなく外界が彼らの求めているものを有していないとして拒否しているとし、(f)にあるように精神分裂病や抑うつとの鑑別にも言及している。ここから、スチューデントアパシーは精神分裂病やうつ病の単なる症状ではなく、独立した臨床単位である事を示しているといえる。
(a)アイデンティティーの葛藤と進路の喪失が見られる。
(b)心理状態としてアンヘドニア(快体験の希薄化)が見られる。
(c)本業領域からの部分的撤退という陰性の行動化を繰り返す。
(d)病前性格として強迫傾向、回避的性格、勝負過敏症が見られる。
(e)新たな診断分類として退却神経症を提唱。ただし、軽度はパラノイローゼ群、重度はボーダーライン群とする。
Walters(1961)はスチューデントアパシーの概念を精神分析的視点からまとめたが、それに対して笠原は日本の症例を中心として疾病分類的あるいは病前性格的にまとめている。
また退却神経症を提唱し、病前性格も明示している。さらにアンヘドニアという特殊な心理状態が症状の基本にある事を示し、スチューデントアパシーが不安、抑うつ、離人感、焦燥、苦悩といった自我異質的状態とは異なる独特な自我親和的心理状態にある事を明確化した。これらのことから、笠原もまたWaltersと同じくスチューデントアパシーをひとつの臨床単位として捕らえているといえる。
しかし、基本的にその臨床像はWaltersのものと大差はなく、Waltersの概念を新たな専門用語で解説し独自性を持たせたものとなっている。
(a)選択退却を主とする「静かなアパシー」と追い詰められて神経症状を呈する「騒々しいアパシー」がある。
(b)選択退却を完全退却は連続線上にあり、長期事例では相互に流動的となる。
(c)親(特に主導型の母親)に枠付けられた強者(秀才)アイデンティティーの挫折が自己不確実を生じさせる。
(d)自己不確実が準備性となり、些細な事を引き金として退却をはじめる。
(e)成熟に通じるサブクリニカルな問題性格群である。
Waters(1961)がスチューデントアパシーを父親とのエディプス葛藤から来る男性性形成の障害としたのに対し、山田はスチューデントアパシーとはエディプス葛藤以前の母子関係の問題が起因して起こるものとしている。
また山田は(a)(b)に示したように選択退却(笠原の部分的退却に相当)が主である「静かなアパシー」と、神経症状と退却を繰り返す「騒々しいアパシー」があるとしながらも、長期継続的な観察の結果から選択退却と完全退却は連続的で次第に神経症状と退却が繰り返し生じるようになると指摘しており、この点で部分的退却を中核的特徴とする笠原の見解との相違が見られる。また、サブクリニカルな問題性格群という位置づけをしており、ひとつの臨床単位として扱う事を提案するWalters(1961)や笠原
(1976, 1977, 1978, 1981, 1983) の見解とは異なっている。
(a)典型例として、部分的退却を単一に示すT型(受身回避型)と、全体的退却と部分的退却が流動的でアパシー症状が中核ではあるが他の症状も複合的に示すU型(自己愛型)がある。
(b)U型はT型に比べて重症であり、現実検討力の水準は低く、母子密着型が多い。
(c)典型例は、否認や分裂の防衛機制に依っている事から人格障害の範囲内にある。
(d)典型例は、発達段階での一過性のアパシー、一般学生のアパシー傾向、類アパシー群(神経症等におけるアパシー状態)と区別される。
土川はそれまでの一連の概念の再検討をし、スチューデントアパシーの新しい分類を提案した(図.1)。
スチューデントアパシーの状況像についての概念は、上記の笠原と山田の概念の統合を目指した内容となっており、それまで明らかになっている状況像の概略を簡潔にまとめている。
また土川の概念では笠原、山田とは異なり、はじめて人格障害という見解が示され、それにより近似した状態との区別を行っている。ただし、ここでは人格構造については言及されておらず、不確実である。
(a)批判が予想される状況からの選択的回避。
(b)自らが陥っている困難な状況に関してその事実経過は認めても、それを自らが対処していかなければならない深刻な状況として受け止められない。
(c)問題解決行動を約束しておきながら、その場面になると回避行動をとり、一貫性のない行動を繰り返す。
(d)自分の内的欲求を意識できず、また自分がやりたい事がない事をも意識できないまま、周囲の期待にあわせて自分を保とうとする。(欲求希薄)
(e)感情の動きが乏しく、楽しいとの感覚がない。生き生きをした実感がなく、物事に興味や意欲が湧かず、生活全体が受身的をなる。(感情希薄)
(f)時間感覚が乏しく、生活リズムが乱れ(昼夜逆転など)、生活に張りがない(一日中ボーッとしている)。それに焦りを感じない。(時間感覚の希薄)
(g)主観的にきちんとしていない時が済まない。きちんとできない場合、それを避ける事できちんとした状態を保つ。
(h)期待される事を先取りして行動する。他者の気持ちを汲む事に優れている反面、自己の欲求に基づく行動ができない。
(I)自分の弱みを知られる事は非難される事との意識が強く、他者に自己の感情を伝え、情緒的に依存する事ができない。
(j)一つの臨床単位として、アパシー性人格障害を提唱。
下山はそれまで研究され各論者によって異なっていたスチューデントアパシーの概念を、スチューデントアパシーを多元的構造を持つ障害と仮定し、上記した各論者らの異なった概念を単一概念内の障害の次元の違いとして独自にまとめ、「3次元構造モデル」として示した。(a)〜(c)は「悩まない」行動障害、(d)〜(f)は「悩めない」心理障害、(g)〜(I)は「自己適応強迫」性格として位置づけ、それぞれについて近似的な精神疾患との鑑別について検証されている。
さらに下山はWaltersや笠原がとったスチューデントアパシーはひとつの臨床的単位であり、土川が示したスチューデントアパシーは人格障害であるという立場から、「アパシー性人格障害」を提唱している。
以上、現在示されているスチューデントアパシーの概念について整理してきたが、未だ、確固たる概念は確立されていない。
中島(1996)の示す調査上の数字(図.2)を見れば、スチューデントアパシーは増加の傾向にはないという事もできる。しかし、生活上の選択肢が増えた現在、海外留学などの理由にまぎれ、スチューデントアパシーの姿はますます見えにくくなっている。また、スチューデントアパシー患者に対する援助では、自発的な来談があまり期待できない、来談しても続きにくいといった点で困難な問題がある(岩村
1996)。患者の潜在化、援助の困難さが叫ばれている今日、臨床活動の方法論の確立の前提として、スチューデントアパシーの概念の確立が待たれる。
近似的な精神疾患や一般学生に見られるアパシー傾向との鑑別性、人格構造の検討の信頼性、妥当性から筆者は下山の概念を指示する。しかし、まだ臨床現場での検討が必要であると思われる。
また、スチューデントアパシーの事例は現在、アメリカ、ドイツ、日本でしか報告されていない。これには、そこにある社会的な要素がスチューデントアパシーの発生に影響を及ぼしていると考えられ、概念の形成とともにスチューデントアパシーの成因の特定につながる研究の発展も期待される。
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