作家曾野綾子氏の新聞連載によると、イスラエルの学校では、校外学習を引率する教師は自動小銃を携帯するそうです。万一テロリストの襲撃を受けたときには、応戦することで一人でも多くの児童の命を助けたい、との趣旨だそうです。
そういえば、以前、イスラエルの中学校の体育の時間に教えているという護身術を、テレビニュースで見たことがあります。
こんな感じです。
手榴弾を投げつけられそうになったら
手榴弾を奪いとり
手榴弾を持ったまま相手を叩きのめし
相手を地面に倒すと同時にその身体の下に手榴弾を滑り込ませ
自分は少し離れたところで地面に伏せて
相手の身体の下で手榴弾が爆発するのを待つ
日常的にテロの危険にさらされているイスラエル人の感覚は、我々日本人と異なっていて当然で、テロリストを手榴弾で吹っ飛ばしてしまうような護身術も、彼らにとっては日本人にとっての「ワンドアツーロック」程度のものなのかもしれないのです。
曾野氏はイスラエル人の感覚にも敬意を表し、翻って日本の現状を以下のように指摘します。
特に、どんな事情があろうとも、殺人なんかもってのほかです。
古い映画(沓掛時次郎?)には、背中に背負った少年に人を斬る姿を見せたくなくて、「十数えるまで目をつぶってな」と少年に言いつけ、「ひとーつ、ふたーつ」と数えながら人を斬る渡世人が登場します。
最近ではパチンコ台の名称になっている「必殺」シリーズでは、同情の余地のない悪人を暗殺してきた「○○人」が帰宅すると、家族がおむつを縫っていて、「○○人」は何気なくそのおむつを手にとろうとして慌てて手を引っ込める、という場面が何度か描かれています。
ひるがえってハリウッド映画では、主人公は肉親の子どもの前で、ガンガン人を撃ち殺します。
「暴走特急」のスティーブン・セガールは姪の目の前で
「ゴリラ(コマンドー?)」のアーノルド・シュワルツェネッガーは娘の目の前で
いったい何人撃ち殺していることか
そしてそれを目の当たりにしている姪も娘も、伯父や父がたった今大量虐殺していたことなど意に介さず、抱きついて、キスをして、大団円となります。
この差は大きいです。
井沢元彦氏流にいえば、これは日本人の「穢れ」感覚の現れの一種で、部落差別や軍隊・自衛隊への嫌悪感と同根、ということになるのでしょう。井沢氏の「穢れ」説は興味深い仮説ですが、ここでその当否を論じることはしません。興味のある方は井沢元彦氏のHPや氏の著作をご参照ください。
さしあたって、理由はともかく、日本人は暴力が大嫌い、相手を殺すほどの先制攻撃なんてとんでもない、ということは間違いないようです。
そして、暴力が大嫌いな人間の最右翼に、学校の教師が含まれています。
ケンカはよくない
話せばわかる
暴力反対
小学校の頃、イヤというほど聞かされました。
でも、まさか武装した暴漢と「仲良く」しようとか、「話せばわかる」とか思っているわけではないでしょう。
思っている教師は変です。事態は暴力以外の手段で収拾できる性質のものではありません。
たとえ教師が手を下さなくても、警官は発砲を含めた暴力の行使を前提として駆けつけてくるわけです。
と
確かに、実際問題として、教師が警官の代わりに暴漢を制圧することは非現実的です。
都内某区は、暴漢の乱入に際して、教師は身近なもので凶行を妨害しつつ、児童・生徒とともに校庭等に避難、警官の到着を待つべし、と通達したそうです。
ベストとは言いませんが、最もまし(least evil)な方法だと思います。
しかし、たとえ現実的にはみずから暴力を行使しなくても、自分たちの嫌いな暴力を、警官が代行してくれることに、教師は感謝すべきだと思うのです。
そして、いざとなればあてにする暴力を、普段は否定していることを、心のどこかで恥じるべきだと思うのです。
なお、表題の「ビッグマグナム」は、往年のB級映画「ビッグマグナム黒岩先生」から拝借しました。日本で唯一拳銃の携帯を許された黒岩先生(横山やすし)が、荒れた高校で大暴れする映画だったらしいのですが、見ていません。興行的にも当たらなかったようです。