書評のようなもの

中村攻(おさむ)『子どもはどこで犯罪にあっているか』晶文社、2000年

 家人の知人の父上であることから、我が家では「Nくんのお父さん(Nって、中村か。そりゃそうだ)」と通称されている、中村攻氏の著書、『子どもはどこで犯罪にあっているか』を読みました。縁ある人の本だから取り寄せてみたわけではなく、書店の棚で見つけて買ってきたものです。

 街中で子どもが犯罪の被害者になる場所には、誰にも見られずに犯罪を行うことができるという共通の特徴がある、ということを、アンケートと現地調査を駆使して明らかにした本書は、危機管理(犯罪抑止)という観点からの都市計画論であり、とかく個人レベルの対処に関心が偏りがちな危機管理論にとって、画期的な著作といえます。

 特に、集合住宅や戸建て住宅が、公園の利用者や通行人の視線からプライバシーを守る(室内をのぞかせない)ことに腐心した結果、公園や道路が地域住民の死角に入ってしまう、という事例の多さに驚かされます。高い塀や密植した生け垣、分厚いカーテンやブラインドなどで視線を遮るだけでなく、はじめから公園の側には最小限の窓しか作らない住宅も多いようです。中村氏は、「公園はまち(地域)のリビングルーム」と書いておられますが、我が国の都市化の過程において、「人は家に住むだけでなく街に住む」ということが忘れられてきた結果が、街中の犯罪多発地帯を生み出してきたわけです。

 ただしこれは、単に都市計画の失敗というだけでなく、「地域社会のしがらみから逃れて家族だけ(核家族の大人たちにとって、それは「自分(たち)だけ」とほぼ同義ですが)の生活を満喫したい」という都市住民の願いが生んだ「意図せざる結果」であることも直視するべきでしょう。

 すでに住居に背を向けて造られてしまった公園の治安回復のために、中村氏は、公園を地域住民が集まれる場所にすることを提唱しています。公園または公園を見渡せる建物に高齢者が集まって日がな一日雑談を楽しめるようにしたり、公園を使って地域のイベントを開催したり、犯罪行為を誘発しやすい殺伐とした雰囲気を払拭するために、ゴミの撤去や落書き消しを行ったり、というようにです。

 これは、私も紹介している、佐々淳行氏いうところの三種の危機管理「自助、互助、公助」のうちの、「互助」に相当するものです。そして、原則的には私も賛成です。

 しかし、急いで付け加えなければならないことは、互助は自助よりも公助(行政による対策)よりも難しい、ということです。

 自助が最も容易なのは明らかでしょう。危険な公園や道路はたとえ近道でも通らないことが犯罪回避に効果的なのは明らかですし、個人の心がけ一つでそうすることは難しくありません。

 次いで容易なのは公助を求めることです。公園に街灯をつけろ、見通しが悪くなるから植木はこまめに剪定しろ、常駐の管理人を雇え、と行政当局に要求することは、ちょっとの手間を惜しまなければそれほど大変なことではありません。行政が迅速に動くことは期待できないかもしれませんが、少なくとも、その要求をしたために行政当局と不仲になったり、行政サービスを受けられなくなったりすることはないはずです。

 ところが、「公園でイベントをやろう」「地域住民の手で公園の美化をしよう」とご町内で呼びかけたら、一気に町内のつきあいから浮き上がってしまう可能性大です。「趣旨はわかるがうちも都合があるから」「そんなことは行政に任せればいい」「やりたい人だけがやればいい」などと否定的意見が相次ぎ、所期の目的が達成できないのみならず、「町内会の仕事を増やしたがる困った人」として、隣近所から敬遠されるリスクを負わなければなりません。

 以上のことを整理すれば、自助は他者が最初からいない世界、公序は他人(行政当局者)を人間でなく(行政サービス)システムの一部として、いわば機械として扱うことが可能な世界での事柄あるのに対して、互助は自分とは思惑も行動パターンも異なる具体的な他者とともに生き、他者との微妙な距離を測りながらちょっとずつ自分の願いを実現してゆくことなしに達成し得ないことです。

 しかも、現代人は通常、他者のいない世界で生活しています。教育が直面している問題のいくつかも、このことから派生しているように思えるのですが、それについてはまた機会をあらためて論じたいと思います。

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