まだ「安全なはずの学校」と言うか?

 池田小事件から1年、事件とその後を振り返る報道の中で、またぞろ「安全なはずの学校で」の枕詞が繰り返されています。

 百万回でも言いますが、学校は本来、侵入にはきわめて弱い施設です。

 広い校庭は、おのずから外部との境界線を長いものにします。境界線が長ければ、その管理は困難になります。広い敷地と、複雑な校舎配置は、侵入者に身を隠す場所を提供します。

 校舎は複数建っているのが普通ですから、校舎間をつなぐ「通路」の出入り口が複数開放されているはずです。

 そして、暴力事件に対処しうる大人の人数に比べて、十分な抵抗もおぼつかない児童・生徒の数が多すぎます。

 学校は、侵入するのも容易ならば凶行に及ぶのも容易な施設です。いくら警察へのホットラインを設置しても、「つかまってもかまわない」「いっそ死刑にしてほしい」という手合いには抑止力はありません。

 私は、徒に児童・生徒や保護者の皆さんの不安をあおり立てたいわけではありません。学校は危険な場所だ、ということを前提にしなければ、安全な学校を作ることはできないと考えているだけです。

 「安全なはずの学校」という常套句は、我々が「万一の侵入者には弱いが、警備に費用をかけない安上がりな学校」と「万一の侵入者を防ぐための万全の体制をとっているが、そのために莫大な費用がかかる学校」を秤にかけて、前者を選択している現状を覆い隠してしまいます。

 実際には、池田小の事件を契機として配置された校門の警備員を全廃しても、学校で凶行が起こる可能性はそれほど高くはならないでしょう。なぜならば、学校に侵入して児童・生徒を殺傷しようと考える人間の数はきわめて少ないからです。

 一方、逮捕も死刑も覚悟の上で、完全武装で侵入してくる確信犯に対しては、配置された警備員はほとんど無力でしょう。格闘技や逮捕術に長けた屈強な警備員を複数配置しなければ、校内での凶行を抑止することは困難です。

 ちょうど、大雪や台風のたびに首都圏で繰り返される、「何十年かに一度の大災害に耐えられるように、莫大な費用をかけて街づくりをするか、たまの交通マヒはコストのうちと割り切って、安上がりな街づくりに甘んじるか」の議論のようなものです。

 侵入者に強い学校づくりを論じるならば、コストパフォーマンスの問題は避けて通れません。そして、安全のために今以上のコストをかける、という社会的な合意がなければ、学校は危険なまま放置されます。「本来安全な学校」という常套句は、我々がコストを惜しんで安全を犠牲にしていることを忘れさせてくれます。

 安全な学校づくりには、予算も人手(ボランティア)も必要でしょう。「こんな危険な場所で子どもを生活させられるか」と、保護者や地域住民(選挙民)の大半が本気で思ったときに、予算も人手も確保できる目途が立つはずです。

 もっとも、私学人気や学校選択制のもとでは、「少しでも安全性の高い学校」が学校選びの基準に加えられるだけかもしれませんが。

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