教師はフォーメーションを組めないのか?

 九州で、学校行事の登山の最中に行方不明になった小学生が丸二日後に無事救出される、という事故がありました。

 この事故を契機として、学校登山が相次いで中止されるような事態にならないことを祈ります。というのも、近年の子どもたちは、登山でもしないことには足腰を鍛える機会に恵まれていないからです。山野を駆け回る機会が失われているのみならず、昨今のバリアフリー化は、階段を駆け上がったり駆け下りたり凹凸をよけたり、といった機会さえ子どもから奪う、という「意図せざる効果」を発揮してしまっています。

 それにしても、報道された範囲で判断する限り、この登山では、とても基本的な配慮がなされていなかった節があります。その配慮とは、隊列の殿(しんがり。最後尾)は教師がとる、ということです。行方不明になった子どもは、列から大きく遅れてしまい、追いつこうとしたものの三叉路で間違った道を選んでしまったためにはぐれてしまったということですから、教師が最後尾にいれば事故は未然に防げたはずです。

 そう思って校外活動中の教師・児童生徒集団を観察すると、教師が先頭に立っていることがとても多いことに気づきます。教師が一人しかいなければ仕方のないことではありますが、それにしても、5分近く一度も振り返ることなく散歩の先頭に立っている教師を見たこともあります。あまりの迂闊さに「いつ振り返るのだろう」と思って立ち止まって観察してしまいました。まわりにはちょっとした雑木林があり、迷い込んだり連れ込まれたりする可能性が皆無とはいえない場所だったにもかかわらずです。

 遠足などでも、担任が学級の先頭に立っていることが多いようです。しかし、遠足ともなれば教師が複数いるわけですから、教師が交代で殿をとり、極端に遅れる児童生徒に配慮することは可能なはずです。その際可能であれば、殿は二人組で行い、やむを得ず遅れた児童生徒に一人がつきそうとか、万一はぐれる児童生徒がいたときには分かれ道ごとに教師が立って追いつくのを待つとかいった対応ができるようにすることが望ましいでしょう。さらに、携帯電話なり小型トランシーバーなりを殿と先頭が持って、最後尾の状況に応じて先頭のスピードを加減してもらうことも検討に値します。

 このような、集団が誰一人はぐれないように配慮しながら行動することは、学生時代に複数の自動車に分乗して旅行するときなどに、否応なく経験することでした。事前に地図を確認し、最も頼りになる運転手を最後尾の車両に配置し(万一車列が分断されたとき、取り残された車列はこの運転手の指揮下に入ります)、先頭車両の運転手は赤信号で車列が分断されないように走行し、しかも万一はぐれたときに備えて集合場所や連絡先(誰かの実家だったり目的地の旅館だったりしました)をあらかじめ取り決めておいたり、といった具合です。

 このような配慮は、携帯電話の普及とともに無用となりました。各車両は携帯電話で適宜連絡を取り合いながらてんでんばらばらに目的地を目指せばよくなったわけです。1995年頃から、学生合宿でオリエンテーションを行うことも不可能になりました。一人が見つけたポストのサインを、携帯電話で他のメンバーに知らせることが可能になってしまったからです。

 かくして、集団行動をとった経験のない学生が教師になるに伴い、「殿は教師がとる」という基本事項さえ徹底されない事態は、今後いっそう頻繁に起こってくることでしょう。大規模な集団活動の実施が困難になり、連携や共同作業を経験することなく成長する児童生徒が増えることを懸念します。


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