女子児童、女子児童を殺害


「佐世保の事件」に関して、事件発生当日の2004年6月1日以降、私自身が管理する掲示板「ゲストルーム」に不定期に投稿していた文章を、明らかな事実誤認や文脈上不要と思われる個所を訂正の上再掲します。


[1]女子児童、女子児童を殺害
佐世保にて

加害者、被害者とも小6
教職の時間に「学習ルーム」に呼び出して凶行に及んだらしい

類似の事件は十数年前から報告されていた。現場が主に中学校であったこと、加害者が主に男子生徒であったこと、そして何より今まで死者が出なかったことが、これまでプレスに無視されてきた主因であろう。プレスはいつも、自分たちの怠慢を隠すためであるかのように、広いすそ野のある事件を「突発事件」のように報道したがる。

しかし、謎なのは凶器がカッターナイフだということ。あれは力を込めると刃が折れる。人体に刺すことはまず不可能。切るとしても深手を負わせようとすれば刃が波打ち、かなりの確率で折れる。

筋力に劣る女子児童が振るえばこそ、刃が欠けも折れもせず致命傷を与えたということかもしれない。
06/01

[2]
傷は長さ深さ各10センチ、被害者を椅子に座らせ、「殺す気で」切りつけたという。

かつて、「ピストルは撃ってしまえばあとは弾に聞いてくれだが、刃物は命取るまで自分の意思」みたいなことを何かで読んだ記憶があるが、いとも簡単に「殺す気で」切りつけられるセンスはもはや理解不能である。

おりしも、アウトドア料理で使用したナイフを含む3丁の刃物を研ぎ上げたところ。あらためて思う。刃物と仲良くしていない人間は、刃物に酷い仕事をさせる。

どこぞの小学校に、同僚の反対押し切って、クラスの児童全員に肥後守を持たせた教員がいるという。今はむしろそういう対応の方が、刃物を取り上げることよりも重要なのではないかと本気で思う。
06/03

[3]

口論もなく、椅子に座らせたまま、手で目隠しをして首に切りつけたそうである。
カッターナイフを所持していても怪しまれない図工のある日を犯行にえらんだともいわれる。
もはや激情に駆られた犯行ではない。「プロ」である。「必殺必中仕事屋稼業」という時代劇で緒形拳が演じた殺し屋「知らぬ顔の半兵衛」の手口そのものである。

計画を立てることと実行することの間には深くて暗い川が幾筋もある。彼女はその川を越えたまま何日も過ごしたのだ。思春期に何度かその川を越えかけた経験のある私だが、そんな心理、理解できるはずがない。「理解できる」と言っている人々を、私は信じない。
06/03

[4]

カッターナイフを使う手口はテレビドラマを見て思いついたそうだ。

テレビドラマでカッターナイフを使った殺人が描かれたとしたら、それは「できっこない(真似ても無駄な)手口」として採用されたもののはずだ。テレビドラマの制作者にとって、番組を真似た事件が起こるほど怖いことはないはずだし、事実カッターナイフは人を殺しにくいナイフだ。

カッターでも人は死ぬ、というのは誤算だったかもしれないが。
06/03

[5]

この件について、わかったような口をきくのはよそう。
この事件は異物なのだ。彼女は他者なのだ。
説明してしまうということは、理解不能なものを理解できるかのように錯覚することだ。安心以外何ももたらさない。
迂闊に説明しようとすると語りがループに入ってしまう。教育委員会とか学校に抗議の電話かけて何時間もしゃべっているという人々がそうだ。未曾有の事態が発生したのにとうとうとしゃべれるということは、彼らがこの事態を既知の事態の派生態として認識していることの現れだ。
06/04

[6]

似ているもの二題

(1)ホロコースト
ユダヤ人の強制収容、強制労働からガス室での殺害に至るまでの一連の作業についてバランスシートを作成し、システマティックに黒字経営を目指していたと言われるホロコースト。さすがにガス室関連の勤務はストレスがたまったらしいが、それを癒すために収容者の中から音楽家を募ってクラシックを演奏させたりもしていたという。このへんのことは栗本慎一郎が『パンツをはいたサル』にわかりやすく紹介しているところだ。

「これはまずい」という感性(それがなければストレスは感じない)を、理性によってコントロールしてユダヤ人を殺し続けた収容所職員。言い古されたことだが、理性的であることそれ自体は善でも悪でもない。ホロコーストは理性によってなされた巨悪である。

子どもなりに綿密な殺害計画を立て、犯行後約15分間、被害者の絶命を待つかのように現場にとどまっていたという、類似の事件に見られない冷静さを示した今回の加害者。彼女が良心の呵責を感じつつ犯行に及んだとすれば、彼女は理性によってその良心の呵責を押さえ込んでいたのかもしれない。

少なくとも、これは激情に駆られた犯行ではない。従来の「キレる子ども」の文脈で語ることは、これが新しいタイプの事件であることを隠蔽するだけで無益だ。強いていえば「解決策、防止策はある。ただそれを実行すべき人々がサボっているだけだ」と人々に信じ込ませることで、民心を安定させる効果はあるかもしれない。しかしそれにしても、「サボっている」ことにされる人々にとっては迷惑千万な話だ。

(2)横溝正史小説の犯人たち
村落共同体の家制度の中で構造的に従属的立場を強いられた人々が、数十年来の恨みを晴らすべく綿密な殺害計画を立てる、というモチーフが、横溝作品には繰り返し登場する。

何年もクラス替えのないまま同級生だったという加害者と被害者。周囲の者には計り知れない「積年の恨み」があったのかもしれない。そして再三繰り返すが、その恨みに突き動かされて逆上したわけでなく、綿密な殺害計画を立ててこれを実行に移す冷静さ。そこには、感性(情念)によって進むべき方向を定められた理性の働きが見て取れる。

今回の事件をきっかけに、行政はまたぞろ「心の教育」を言い立てているという。押っ取り刀、付け焼き刃の「心の教育」など、理性に訴えるもの(要はお説教だ)でしかあり得ない。しかし、これは感性(情念)vs理性の問題ではなく、ましてや蒙昧vs理性の問題でもない。理性自体がこの事件に抜きがたくかかわっている。行政も研究者も、まだほとんどそのことに気づいていない。

06/08

[7]

今回の事件は、殺意を抱いたという入口よりも、その殺意に忠実に殺害計画を立て、計画を完遂したという出口の方に特異性があるのではないか。殺意を抱いても実行に移さない人の方が多いだろうし、多感な時期に誰かを殺したいほど憎むことは、会いたくてたまらなくなるほど好きになることと同様に珍しいことではない。

実は私が最も気になっているのは、加害者が被害者の後方に立ち、目を自分の手で隠して、つまり両手で被害者と接触し、自分の目の前に被害者をとらえたままで、被害者を意図的に殺せたことだ。

被害者の感じている(はずの)恐怖心、生き物の皮膚特有の刃物を跳ね返す弾力、その他もろもろの事柄が当然伝わってしかるべき位置関係だ。

高校の生物で「血液型を調べるから自分の小指を針でつつけ」と指示されて、多くの女子生徒が泣いていたものだ。

でも実際には何も伝わらなかった。スーパーで買ってきた鶏モモでもさばくようにザックリだ。その外界への感受性の低さに慄然とする。

「流行歌が風景を歌わなくなって久しい。曲を聴く側が外界に興味を失っているからではないか」と学生に語り続けて三年。外界への無関心は臨界に達したようである。
06/11

Copyright (c) 2004 YAMADA Masahiko All rights reserved.
当ページの内容の複製、改変、転載は、著作権法に
定められた例外を除いて、法律で禁じられています。

危機管理小論集に戻る