
国語における論理的思考力の育成
附属小金井小国語科 大塚健太郎教諭に聞く[1]
附属小金井小の教員へのインタビューを中心に構成する "From Inside" 、第一回は国語科の大塚健太郎先生の登場です。「国語における論理的思考力」から始まった話は大きな広がりを見せました。そこからプログラミング教育の立ち位置や課題を探ります。(聞き手:鈴木秀樹)
━━━国語では今まで論理的思考力をどのように捉えて、どのようにその育成を図ってきたのでしょうか?
- 国語では、と言われても難しいですけどね。論理的思考力となると、「はじめ−中−おわり」「原因−結果」「時間的順序」「比較」などの大枠はありますね。その大枠の中で読んだり書いたりしながら育ててきたし、これからもそうであろうということになるかと思います。かつては論理より情緒の方にウェイトが置かれていたように思いますが、PISA型の話が出てきてから論理の方が強調されて、因果律とか原因−結果といった要素が表に上がってきたようなところがあります。もちろんどちらも大切なのですが、おそらく多くの国語教師は文学肌で、情緒を大切にしてきたようなところはあるのではないでしょうか。
━━━論理を強調する最近の傾向によって、この教材の教え方が変わってきたというような具体例はありますか?
- ざっくり言うと、説明文の指導では内容知より方法知が重視されてきているように思います。「アリの行列」などのように科学的説明文がありますよね? あれを読む時に、かつては「ああ、アリさんってこんな風にしてやってくるんだね。」というように中身を読んでいたように思いますが、それが「どういう風に書かれているか」「なぜ作者はこの例を使っているのか」といった書き方を読み取る方に視点が移っていっているように思います。
━━━それは国語教育としては良い流れだと思いますか? それとも内心忸怩たるものがあったりするのですか?
- 良い流れではあると思うけれど、間違っていると言うか…いや、間違ってはいないのだけれど、要は言葉を通して認識するのが国語科なわけですよね。そうするとアリの行列を読んでアリのことがわからないのでは困るわけですよ。ところが、論理に重きを置きすぎて、うっかりすると「構成はこうなっています」とか、「例示の仕方はこうなっています」とか、そういったことがわかればオーケーであると。そうした考え方が行き過ぎてしまうと「だったら別に『アリの行列』でなくてもいいじゃないか」となってしまうわけですよ。それではいけないと思います。
━━━なるほど。今、説明文の話を伺いましたが、物語文はどうですか?
- 象徴とか構成とか入れ子構造とか、抜けている場面を考えようとか、構造的に読もうとはしているかもしれません。でも、そうやって構造的に読むことを進めていくと、文学の場合「どっぷり浸かる」というところからは離れていきますよね。要するに伏線を探しながら読むみたいなことになるわけですよ。推理小説なら伏線を探しながら読むのも有りだとは思いますが、例えば「大造じいさんとがん」とか「ごんぎつね」を、伏線を探しながらずーっと読むというのはちょっと違うかなと。
━━━確かに。
- 論理と情緒のバランスが大切なのは物語文も変わらないのですが、そういった面はありますかね。
━━━これからの国語においては、そのバランスの取り具合が難しいということになるのでしょうか。
- 物語文や説明文で、その分野を教えなければならないのであればそうでしょうね。論理的思考力を説明的文章で身につけなさいとか物語文で身につけなさい、といった話になると、そのバランスは重要でしょう。
━━━でも、それって常に必要なものでしょうか。
- そう、物語文なんてそんな論理なんてなくたって「ああ、いい話だな」という読後感があれば、じわっとくればいいと思うのですよ。「なんで自分はこの話で泣けるのだろう」なんて考えなくてもいいでしょう。
━━━泣いちゃえばいいじゃないか、と。
- そうそう。だって「かわいそうなゾウ」を読んで「ああ、ここで毒を入れられたのか」とか冷静に言われてもいやじゃないですか。そんなことよりも、物語に「浸る」ということも大事にされていいのではないかな、と思います。
━━━浸りながら、同時に分析的には読めないですよね。
- 一つの時間ではできないでしょうね。浸る時間もあるけれど、何年かたってメタに読めるようになってから「なんで自分はこれで泣けたのだろう」と考えて、「ああ、自分はこういうセンテンスに弱いのか」というようなことがわかってくると、作家はどう考えているのだろうと批評家的に読めるようになってくる。それも言語で楽しむ、言語に親しむということではあると思いますね。
━━━みんなが作家になるわけではないけれど、そうした読み方ができるのは素敵です。
- 或いは、「なんでこの人の文章に説得されてしまったのだろうか」と考えた時に「こういう身近な例が出てきたからだな」といったことがわかってくると、自分が表現者になった時にそれを使ってみようとか、そういったことにはなってくるかもしれません。
━━━今、表現者という言葉が出てきましたが、今度は「書く」ということについて伺いたいと思います。今、2年生に書くことの指導もしていますが、「『はじめ−中−おわり』を作りなさい」みたいなことを言うわけです。そうした指導のもとでは、ある程度、論理的に考えられる子でないと、文章が空中分解しかねない。
- でも、あまり形にはめすぎてしまうと…。
━━━「この子の作文、つまらないな」になってしまう。
- それも長く論争のあるところですね。生活綴方なのか、報告文、説得文なのか。文章を書くにしても、説明書を書くのか、それとも日記を書くのか、目的によって全然違うわけですよね。
━━━違いますね。
- それがわかって指導できるといいだろうな、と思います。だって、一日をふりかえって書く日記で、一々「はじめ−中−おわり」でなくたっていいですよね。心情を吐露するような生々しい文章があっても構わないと思います。でも、日記でも「どこどこに行きました」みたいな大枠があって、中をきっちり書いて最後にオチがくる、絶対そうしなさいみたいなことになるとつまらないでしょう。会話文から始まる作文が評価されたりとかね。基礎を知っている、ということは大切でしょう。
━━━「絶対、こうしなければならない」というのが強いと、書きようがなくなってきますよね。
- ミニトマトの観察日記なんて書かせるとみんな同じになってしまう。「はじめ、双葉が出ました。よく見ると毛が生えています。」誰が書いても同じになってしまう。報告という意味では技術はマスターしているけれど、それはあなたの作文ですか?と問われると難しいですよね。それはどこに評価軸を置くか、ということだし、どういう文章を書ける子がこの先、有用な職に就けるかということにも関わるのではないでしょうか。

大塚健太郎
東京学芸大学附属小金井小学校教諭
兵庫県生まれ。横浜市内の公立小学校教諭、東京学芸大学附属小金井小学校、世田谷小学校教諭を経て現職。国語科部主任。国語授業づくり研究会代表。