
教科の中のプログラミング教育
附属小金井小国語科 大塚健太郎教諭に聞く[3]
━━━新指導要領における国語に話を戻します。先程の情緒と論理のバランスについて、新指導要領ではどのようになっていますか?
- 単元を貫く言語活動の煽りで、活動はしているけれど読んでいない、という状況への反省があると思うのですよね。例えば「ごんぎつね」を勉強しているのに、「ごんぎつね思い出箱」みたいなものができあがっていって、なんだか活動はしているのだけれど、あまりちゃんと読んでいないとか。そうしたことの揺り戻しで「しっかり読みなさい」というメッセージが込められているように思います。
━━━しっかり読みなさい、というのは…。
- 正しく。
━━━正しく? それは論理と情緒でいうと、どちらの面でも、ということですか?
- どちらもだけれど、何と言うか「詳細な読み」に戻っているように思います。読み手に目的があって読んでいるというよりも「ここにはこう書いてあるでしょ!」という、「ちゃんと読み取りなさい!」という指導。でも、本当は「自分はこういう情報が欲しいからこことここを読んだ」というような方略がこれからは問われると思うのです。自分に必要な情報を得るためにどんな風に網を張るか。そのためにどう読むか。だから「正しい」ということがこれから問われてくるのではないか、と思いますね。
━━━「正しい」とは何かというのは難しいですね。
- 「正しい」とは何か。認知の世界というか哲学の世界というか。「正しさ」は社会があっての「正しさ」だったりもしますからね。異文化コミュニケーションの場合はますます不透明になる。そういう世の中においてはどこかで「正しさは何か」を考えて読むようにならなければいけないのではないかと思いますね。物語文においても、説明文においても。「私」は内側にあるのか、それとも外側から自分を見ているのか、それを意識しているかどうかも違うし。
プログラミングは、「正しさ」よりは、どう動くかを記号で組み合わせるわけですよね。そういう意味ではぶれがない。
━━━プログラミングにおいての「正しさ」にもぶれはあるように思います。「右に曲がる」という目的があったとすると、プログラミングとしては「右に1回、曲がれ」でいいわけですが、「左に3回、曲がれ」だって間違いではない。実生活においてはその方がより広く何かを見られるのかもしれない。
- 常に最短経路で行くのでいいのかどうか、ということですね。なるほど。プログラミングでもなんでもそうだけれど、やはりその「何が正しいのか」というのは考えておく必要はあるでしょう。
━━━教師という存在そのものも「正しさ」を意識せずにはいられません。
- かつては揺るぎなかったわけですよね。指導技術を作って、楽しく効率的に伝えていけばいい。でも、これからはそれでいいのか。それでは主体的な子どもは生まれないのではないか。教師が「乗り物を調べよう」と言った時に子どもが「いや、動物が調べたい」と言ったらどうするのか。
━━━プログラミング教育は教師の意識を変える可能性を持っているように思います。私が教えている時も、何か課題を出した時に、こちらが想定していたプログラムを超えたプログラムを作る子が出てくる。それはこちらにも学びになる。だから心から子どもに「すごいね」と言える。
- それが国語でも算数でも理科でも起こればいいんですよ。
━━━本当はそうですよね。
- それは教師の側が十分、役者になれていないわけですよね。プログラミングのように素直に「すごいね」と言えることもあるかもしれないけれど、教科の歴史が深いとなかなかそうはならない。でも、やはり子どもと一緒に「よく乗り越えたね!」と言えるような姿勢は必要です。一緒に学んでいく、というかね。さっきも話したように、それはどの教科でも起こって欲しいことなのだけれど、正直、歴史のある教科では難しい。だからこそプログラミング教育には期待するわけです。
━━━ただ、プログラミング教育の難しさは、その教科の中で行わなければならない、それもただやるだけではなくて、教科の学びを促進しなければならない、というのが難問です。
- 阻害する、と言うか、プログラミングを取り入れた方が面倒臭いんだったら意味がない。
━━━そう考えた時に、国語でそういう場面ってあるでしょうか。
- プログラミング教育の映像がまだ浮かばないようなところがあるので、責任をもって「これとこれです」みたいなことは、まだ言えないですね。例えば鈴木さんがスフィロを使っている時に「これはプログラミング教育の枠組みです」と言って見せてくれたりすると「それは国語じゃないですか」とか「国語になっていないんじゃないですか」みたいなことは言えるかもしれない。
━━━ご自身が国語で教えてきた中で「プログラミング的思考」に近かったな、と今にして思うようなところはありますか。
- 推敲とか要約とかは近いかな、と思いますけどね。要約は自分の意図にあわせて要約しますよね。「こういうことを使いたいために、こことここのソースを取る、ここは削る」というのはプログラミング的と言えばそうかもしれない。新聞の割付などもそうでしょう。どちらかというと表現する場面の方が多い気はします。こういう思いを伝えたいから、これとこれを使う、みたいな。
━━━「国語の説明文は、あれはプログラムそのものだ」というようななことを仰る方も目にします。
- 仕掛けを探す、という授業をするならそうでしょうね。説明文はなぜこの結論に落ちるのだろう、と考えるような授業ならば。ここに問いかけがある、ここで一つ目の結論がある、それで明らかにできなかったから二つ目の実験をする、みたいな。「花を見つける手がかり」なんかはそうですね。そういう論理構成がわかっていくということはプログラミング的ですね。
━━━説明文を読む上でコンピュータに何か打ち込む必要はないだろうと思っています。でも、そこでやっていればプログラムを打つ時に転移することはあるかもしれない。転移すればOKということになるのかも。
- 思考だから、これも思考方法の一つなのだろうと思います。二分法でずっといくとか、ベン図を書いて考えるというのと同様に、プログラミング的思考で考えると言う人がいるのもいい。説明文を読んだり、物語文を読んで伏線を探したり、キーになる場面を探していくようなことをすると、点がつながっていくという感覚がプログラミング的思考と言えなくもないかもしれない。例えば、「大造じいさんとがん」で、こういうふうにじいさんの心情が変わっていったね、それは残雪のこんな姿を見たからだね、みたいな思考の流れを子どもが意識できたらいいでしょうね。
━━━国語で育ててきた思考の中で「時間の順序を追って読んだり書いたりできる」というお話がありました。プログラミングの三要素として「逐次処理」「くり返し」「条件分岐」と言われることが多いです。そこと比べて考えると、説明文は「逐次処理」で書かれていますよね。
- そうですね。
━━━「くり返し」も物語でよくありますよね。
- 絵本はまさにそうですよね。「大きなかぶ」とか。
━━━「きつねのおきゃくさま」とか。
- そうそう。「繰り返し」は、結局、口伝の伝承のものには全部あるわけですよ。そうやって何度も言いながら伝えられてきているわけだから。ちょっとずつ場所や登場人物が、言わば変数が変わっていく。空を飛ぶのが海に入ったり、おおかみだったのがきつねになったりとか。でも、お話の回し方は一緒なわけですよ。鬼が出てきて設定を考える時にいいおじいちゃんと悪いおじいちゃんがいて、悪い方が必ず失敗するとか。昔話を読み聞かせしていくとその構造に子どもたちも気づいていく。一つ一つのお話にも繰り返しがあるけれど、たくさんの昔話を読むこと自体が繰り返しで学んでいますよね。そうすると読むのがわかってくる。そろそろオチが来るぞ、とわかってきて、ワッハッハと笑えるとか、そういうのはありますよね。
━━━物語を繰り返し読むことで「繰り返し」の構造を学んでいるわけですね。
- そうなります。ですから、そういうことを鍛えておくことは、もしかすると「低学年におけるプログラミング的思考の育成」と言ってよいかもしれないですね。
━━━今、子どもたちにScratch Jr という簡単なプログラミング環境を使って、子どもたちにデジタル絵本を作らせることをやっています。この間は、私が短いお話を作り、それに合ったプログラミングを作るというものです。
- 動き、ということですね。
━━━そうです。今度は、先にプログラムを作らせる。その後で、「それにどんなお話をつける?」と考えさせるのをやってみようかと思っています。それでプログラミング的思考を養えているかどうかはわかりませんが、「指示を出すとコンピュータは動く。でも、自分の意図を正確に反映した指示でないとコンピュータは意図通りには動いてくれない。」ということを体験を通して学ぶことにはなっているでしょう。ただ、「これって国語?」と問われると自信がない…。
- お話を書く方は国語でしょう。動き、場面、吹き出し、時間を読み取ってお話を作るのは国語でも昔からあるでしょう。「3枚の絵からお話を考えましょう」というようなことは前からありますよね。或いは宝島の地図があって物語を作りましょう、とか。そういったものとたいして変わらないと思いますよ。
━━━でも、たいして変わらないのなら、そちらでやればいいですよね? なにもこんなお金のかかる機械を使ってやることはないと思うのです。
- それは確かにそうですね。
━━━Scratch Jr がこれまでの教材と違うのは、自分で動きを作れる、それこそプログラムできるというのが、既にある絵や地図にお話を作るのとは違うところだろうと思います。その環境を使ってできる授業、その環境を使わなければできない授業、もっと言えばその環境を使わなければ育めないものを育む授業を設計しないといけないのではないかと考えています。
- なるほど。逆に言うと、今までになかった環境が与えられているわけだから、これまでにあった「何かと似ている」ではなくて「これなら何かができそうだ」という発想でないと間違えそうですね。
━━━置き換え、ではなく。
- そう。さっきの「3枚の絵」のことから考えるなら、これは「自分で作れる」のが今までにはない機能なわけだから、プログラミングでもいいし、動画を自分で撮ってきてもいいから、自分でまずメディアを作ると。そこにどんなお話をつけられるか、とか。「自分で書く」という行為と、それをテクストに落とし直す、逆かもしれない。テクストを動画に変換するという行為。バイリンガルじゃないけれど、行ったり来たりできることで子どもの脳がどう活性化されるか。そこを考えるべきでしょうね。
━━━なるほど。
- その辺りは柔らかい発想が必要かもしれませんね。ちょっと極端な話をすると、こどもがそれを「学ぶ」と捉えているか「遊ぶ」と捉えているかはどうでもいいんですよ。脳味噌さえ動いてくれれば。例えばRPGばっかりやっている子がいるとして、あれはダメなのか。もちろんダメな子もいるけれど、でもあれで「物語」というものを学んでいる子もいるでしょう。紙芝居や小説ではストーリーが入ってこなかったけれど、RPGで主人公として入っていくことで「ストーリーってこうやって展開していくんだ」と初めて学べる子だっているかもしれない。
━━━その子にはRPGが合っている教材だったわけですね。
- 或いは、「ハリー・ポッター」の小説を読むのは途中で挫折しちゃったけれど、映画なら物語に入っていけるとかね。それは、その子のフィルターの違いでしょう。でも、学校教育だと、「読書は褒められて、映画は娯楽だと思われて、RPGは叱られる」というのは、子どもからしたら解せないのではないかと。それを我々が「いいよね」と言ってあげられれば子どもも、世の中も変わっていくかもしれませんね。
━━━教師の意識を変革していくことが必要ですね。
- Scratch Jr に話を戻すと、自分がプログラムしたデジタル絵本、ムービーでもいいかもしれないけれど、それを言わば小説にするということですよね。メディアミックスみたいなことですよ。映画を作りたい子は、例えばScratch Jrを推し進めればいいし、小説を書きたい子は文章にしていけばいい。どっちも体験してみて「あ、俺はテキストに書くのがいいな」と思えば「書く」という行為を磨けばいいし、「自分はテキストは苦手だけれど映像にしていくのはいいな」と思えば、プログラムを組んでいったり映像を撮っていったりしていけばいい。どちらを自分の思考のツールにするか、ということでしょうね。