生誕100年 〜未成年で迎えた1945年8月15日〜

2026-09-06 12:18 | by 村上 |

 今年生誕100年を迎える作家たちがいます。1926年生まれの彼らは、1945年の敗戦をかろうじて10代で迎えた世代です。戦争という体験は、その後の人生や創作にどのような影響を与えたのでしょうか。~図書館で長く読み継がれている作品を通して、その一端をたどってみたいと思います。


 最初に紹介するのは、『まちんと』(司修 絵 偕成社 1978 978-4-03-438010-9)です。”まちんと”とは、広島の方言で、”もうちょっと” という意味です。原爆で傷を負った幼い娘がトマトを口にしてつぶやいた「まちんと」という言葉でした。この絵本の文を書いたのが松谷みよ子さん。1926年2月生まれです。

 戦争中は挺身隊太平洋戦争中の日本において、労働力不足を補うために組織された勤労動員組織)に動員されますが、疎開した長野で敗戦を迎えます。母親が、今しか読めないからと、たくさんの書物を与えてくれたおかげで、10代から書くことを志すようになります。そして18歳で書いた『貝になった子ども』が、1946年にデビュー作となりました。晩年まで精力的に執筆を続けますが、戦争や原爆、平和をテーマにした作品も数多く残されています。なかでも『ふたりのイーダ』は、母の故郷広島で、直樹とゆう子が、誰かを探し求めて歩きまわる小さな椅子に出会う物語です。あの戦争で何があったかを身をもって知っているからこそ、生涯をかけて、「戦争」を次世代にどう伝えていくか模索し、発信を続けました。

 

 3月生まれは安野光雅さんです。『旅の絵本』シリーズ、『ふしぎなえ』をはじめとし、画家・絵本作家・装丁家として活躍された方です。代表作のひとつが、この『繪本 平家物語』(講談社 1996 978-4062079747)です。

 安野さんは、炭鉱で働いていた19歳の時に召集令状を受け取り、陸軍船舶兵として香川県王越村(現・坂出市)の部隊へ赴任します。後年、『繪本 平家物語』を描くために瀬戸内を訪れた時、自分が平家の雑平よりもみじめな一兵卒となり、上官から理不尽ないじめにあった記憶が蘇ります。つい平家物語の時代にも、敵よりも上官を憎むという不幸な現象がきっとあったと思いをはせてしまう。さらに屋島は自分の戦場を訪ねたに等しく、この世は無常であり、平家物語の英雄たちでさえ、物語という大きな時代の流れのなかでは脇役にすぎない。そう感じた安野さんだからきっと、武将たちの栄光ではなく、その陰にいた名もなき人々の人生にも思いを寄せながら、『繪本 平家物語』を描いたのではないでしょうか。

 同じ3月生まれにかこさとしさんがいます。1945年2月、歯科医を目指していたお兄さんが肺結核で亡くなり、4月に東京帝国大学工学部に入学したものの、4月29日の空襲で自宅は全焼。疎開先の三重で敗戦を迎えます。敗戦を境に、手のひらを返したような大人たちの姿に深く絶望したかこさんは、敗戦で自分は一度死んだと考え、これからの余生を子どもたちのために生きようと決めます。昭和電工に就職し誰よりも熱心に働く一方で、セツルメントでたくさんの子どもたちと過ごす中で、子どもの本質に気づきます。子どもは誰しも自分でも気づかない鉱脈を秘めている。子どもは白紙だからと、大人が考える理想の鋳型にはめ込もうとするのではなく、子ども自身の鉱脈に気づかせてあげればいいのだと。その後、絵本作家になったかこさんが、「たくさん描くこと」と「しくみがわかるように描くこと」を大切にしたのは、単に情報を詰め込むためではなく、子どもが自分の頭で世界を理解し、判断できるようになってほしいと願ったからなのですね。『海』(福音館書店 1969年 978-4-8340-0201-0)という1冊を見ても、その思いが伝わってきます。

 

 「私がいちばんきれいだったとき」という詩を知っていますか?『谷川俊太郎選 茨木のりこ詩集』(岩波書店 978-4003119518)に収録されています。この詩を書いた茨木のり子さんが生まれたのは、6月です。18歳で帝国女子医学薬学専門学校(現東邦大学薬学部)に入学するも、学徒動員で世田谷区にある海軍第一療品廠に勤務、そこで8月15日を迎えます。翌日郷里の愛知に帰り、翌年学校が再開、9月には繰り上げ卒業となり、ろくに勉強もせずに得た薬剤師の資格は一生使うことはなかったそうです。「私がいちばんきれいだったとき」という詩を書いたのは、政府が刊行した1956年度の「経済白書」に「もはや戦後ではない」という言葉が記され、それに激しい違和感と憤りを感じたからとあります。戦争によって青春を奪われたことへの憤り、国や権力への不信感、群れずに「個」として生きること…茨木さんの詩には、そういった思いが込められています。

 

 最後に紹介するのは、9月生まれの星新一さんです。1945年4月東京帝国大学農学部農芸化学科に入学した星さんは、8月15日の玉音放送を安田講堂で聞いてます。星製薬の創業者星一を父に持ち、理系の学問に身を置いていたこともあり、彼にとって日本の敗戦は驚くべきことではなく、これで終わった…という思いだったろうと当時を知る友人が証言しています。大学卒業後、急逝した父の代わりに星製薬の残務整理に終始した苦い時代を経て、ショートショートの名手となっていきますが、その作品の特徴は、人名や地名などの固有名詞を極力排することで、人間の愚かさや、官僚主義的、コミュニケーション不全といった普遍的な社会のありようを描いていることです。初めての作品が世にでたのは、1957年です。それからまもなく70年。作品は色あせることなく、今も中学生たちの手に取られ、読み継がれています。文庫本でショートショートを読むのもおすすめですが、『ほしのはじまり:決定版星新一ショートショート』(新井素子編 角川書店 2007 978-4-04-873830-9)で一気に星ワールドを味わってみてはどうでしょう?巻末には、『星新一 一〇〇一話を作った人』(新潮社 2007)という評伝を書いた最相葉月さんと新井素子さんとの対談もあります。


 生誕100年という節目にあわせて、5人の作家を紹介しました。終戦のとき、彼らはまだ10代でした。同じ戦争を経験した世代であっても、その受け止め方や、その後の表現は実にさまざまです。しかし、そこには共通して、戦争を自分自身の問題として考え続けた姿勢が見えてきます。作品を読むことは、その人の人生に触れることでもあります。ぜひ、機会があれば、これらの作品を手にとってみてください。

(東京学芸大学附属世田谷中学校 司書 村上恭子)


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