誰も言わないなら私が言う。Bless Our Troops.

 アメリカで Our Troops という表現を知る以前から、暴力を司る人々へのこの国の冷淡さには気づいていました。この国の人々が、暴力を司る人々を「私たちの」と呼ぶことはまずありません。「私たちの警察」「私たちの自衛隊」ほらね、違和感がある。

 平安時代、警察(検非違使)は「令下の官」という法的規定のない存在だった。自衛隊も「令下の官」だ、と指摘したのは井沢元彦です。

 江戸時代、警察機能を担当した同心が実態としては世襲でありながら形式上1年単位の短期雇用者で、毎年「長年伺い」という手続きを行って雇用期間を更新していたこと、切腹の介錯を生業とする代々の山田朝右衛門が、公的な死刑である切腹になくてはならない役割を担っていたにもかかわらず身分は「浪人」であったことなど、軍事政権だったはずの江戸時代でさえ暴力を司る人々は冷遇されていました。

 そして今、イラク復興のために派遣される自衛官が、同じ仕打ちを受けています。日本を代表して危険な任務に赴くのに、支持されないどころか悪者扱いする輩さえ後を絶ちません。派遣の是非はともかく、自衛官は危険を冒して任務遂行に赴くのですから、是非論とは別に自衛官の身を案じるのが道義心というものでしょう。

 ところが実際は、「何人死んだら撤退させるか決めておけ」などという不謹慎な話ばかりです。かつて、「人質を何人殺されたら立てこもり犯の要求を聞き入れるのか」という議論がなされたことはないはずです。「もしも人質が殺されたら」という仮定自体が不謹慎だとされてきましたから。しかるに自衛官の場合は「何人死んだら引っ込めるのか」です。自衛官が死ぬことは仮定しても不謹慎ではない、と思っている人ばかりテレビに出ています。

 そうかと思えば、「自衛官の誤射でイラクの民間人が死にでもしたら、日本在住のその人の親類縁者が一夜にしてテロリストの支持者・協力者に豹変するかもしれない」などという、在日イラク人に対してさえ相当に失礼な発言も耳にしました。まるで自衛官が武器使用によって日本に災いをもたらす疫病神ででもあるかのような物言いです。誤射で民間人を殺さぬように、というなら、自衛官も正当防衛を確信したら臆せず撃て、と付け加えるべきでしょう。さもないと、自衛官は誤射を防ぐために危険を感じても撃つな、と言っているかのようです。

 数日前から、本学構内には「自衛官はイラクに行くな」という立て看板が立っています。実に無礼な物言いです。「自衛官をイラクに行かせるな」ならいざ知らず。自衛官は日本の行政組織の一員としておもむくのに、これではまるで自由意思でデモに参加する人々やイラク戦争勃発直前の「人間の楯」のような扱いではありませんか。

 日本には一度も正規軍があったことがない、と指摘したのは『裸の自衛隊(別冊宝島133、1991年)』所収の橋爪大三郎論文「自衛隊は、なぜ、こんなに変な軍隊なのか?」です。江戸時代までの封建体制下では封建領主の軍隊(中央政権から見れば私兵)であり、近代軍も市民社会が未成熟なためか「天皇陛下の軍隊」でしかなかった。自衛隊もいつまで国民の意思と無縁な「お上の軍隊」なのか、と。

 とはいえ、望んで得たのでない物事を、我がものとして選び直すことは可能です。我々は、自分の生命や名前でさえ、望んで得たわけではなく、与えられた後に我がものとして選ぶのみです。

 誰も言わないなら私が言います。神様仏様、我らが自衛隊を守らせたまへ。自衛官の皆さん、任務を全うし、無事帰れ。

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