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郡山駅で購入した当時のチケット。地震の3分前の時刻が記載されている。

 涙の乗車券 —震災から1年を経て

「涙の乗車券 (Ticket To Ride)」という古い歌がある。ビートルズが1965年に発表した曲だ。彼らの輝かしいキャリアの中にあっては取り立てて有名なものかどうか、僕にはちょっと分からない。とはいえ、メロディはよく知られていると思う。全米、全英のヒットチャートではいずれも一位を獲得した。その意味では名曲と呼んでも差し支えないと思う。アメリカのポップデュオ、カーペンターズもすこし後にカバーし同曲を再び有名にした。

 たぶん、そんなことよりも、多くの日本の人は昨年の大震災について、いま文章を書いたり、話をしたり、考えたりすることを優先していると思う。すべての人にとって東日本大震災は衝撃的な自然災害であり、そしてまた、大事故でもあった。それからちょうど一年を経た今、僕も一人の、端のほうにいた当事者として、何かを記しておかなくてはならないような気がしている。一年前には、何かを書き留めておくことなど思いもしなかったが、当時僕が目の前で見た出来事は、そう簡単に頭から離れていくものではなかった。一年も前のことなのに事細かに状況を覚えている。大げさに言うなら、今でも、ありありとそのときの状況を語ることができる。その前日、3月10日の出来事など、ほとんど何も覚えてないというのに。

 僕は、この一年を驚く程あっという間に過ごしてしまった。モンゴルに来て、この地の言語や習慣、文化に慣れるために無我夢中だった。日本の状況など考える暇なんてないくらいに。あるいは、忘れるために夢中になることを選んでいたのかもしれない。このことは、いつも僕の心の中に潜む漠然とした恥部のような存在として横たわっていた。そして今もそのことに変わりはない。僕らのような身分の人間に対し、今は海外に出て働くタイミングではないだろう、という声を方々から聞いたし、実際、その通りのように思える状況だった。余震が毎日のように起き、原子力発電所の重大な問題が次々と明らかになっている最中だった。被害の実態は日を追うごとに巨大になっていった。それをほとんど全てのマスメディアが競うように報道した。絶望的な気分というものを誰もが少なからず味わったはずだ。そんな中、3月25日にはウランバートルの空港に到着していた。

 今さら僕が改めて書く必要もないけれど、大震災は昨年の3月11日に起きた。もう少し詳しく書くなら、14時46分に発生した。僕はそのとき福島県の郡山駅にいた。青年海外協力隊派遣に備えた約二ヶ月間に及ぶ語学研修を終える日だったのだ。研修は同県二本松市にある山の奥深いところで行われていた。まだかなりの雪が積もっていた。ターミナル駅である郡山駅から東京方面への切符を買い、改札を抜けた。そこには、研修で知り合ったある女性も一緒にいた。同じ新幹線に乗る予定だったのだ。構内で土産を買おうということになった。今ではそのときに何を買おうとしていたのか忘れてしまったが、代金を支払うときまでは、いつもどおりの穏やかで日常的な光景だった。

 店員が品物を包もうとしているときに突然、大きな音がして床が揺れ始めた。地震だとすぐに気づいたが、それが尋常でない規模のものだと気づいたのはそれから10秒ほどしてからだった。この頃は、まるでこの大地震の予兆のように、一帯で頻繁に小さな地震が起きていた。でも、それが予兆だと知っていた人はほとんどいない。揺れは、僕がそれまでに体験したどの地震よりも強く、長かった。天井に設置されていた蛍光灯が割れ落ち、そして地面でさらに細かく砕けた。床に敷き詰めてあったタイルが不器用に裂け、上に盛り上がったのが見えた。今度は天井のグレーの大きな板も割れて落ちてきた。ぽっかりと黒い歪な形をした穴が天井に残った。次第に周囲の様々なものが床に落ち、そして粉々になる音が聞こえた。グラスや花瓶といった、割れたときに派手な音のするものが、いっせいに申し合わせたように不協和音を奏でた。沈黙を音の一つだと定義した作曲家、ジョン・ケージが聞いたら腰を抜かしたかもしれない。しばらくして、電灯が一斉に消えた。聞こえるのは、物が割れ続ける音、そして、多くの人の常軌を逸した声だけだった。遠くの窓からわずかに入る日光だけの薄暗い空間には、なにやら煙のようなものが舞い込むようになった。僕とすぐ横にいた女性は、お互いに思わずぐっと手を握りしめていた。恋人でもないのに、そんなことをするのはとても例外的なことのように思えたが、ほとんど反射的にそうしてしまったのだと思う。

 そのとき、僕たちはとっさに大きな柱の影に身を寄せていた。しばらくの間は誰もとっさに逃げようとはせず、呆然とその光景を眺めているだけだった。すると、さっきの土産店の店員が屈んだ格好で近づいてきた。そして、何かを渡そうとしている。それは、先ほど僕が支払った金だった。僕が商品を受け取らないままになっているのを気にしていたのかもしれない。彼女の飽くまで真面目な姿勢に驚いたが、それよりも、こんなときに何を考えているのだろうと思った。でも、僕が同じ立場だったら、やはり同じことをしたかもしれない。気が動転していて、という理由だが。

 駅員の指示に従って、駅の外に出た。その後も頻繁に大きな余震が起きていて、混乱した場所を歩いていてもすぐに気がつくほどであった。その日は晴れていたはずだったし、もう雪が降るような時期でもなかったのに、急に天候がかわり、強い冷気と一緒に雪が降ってきた。地面に数センチ積もった程だ。駅を出たすぐ近くにポケット・パークのような広場があって、多くの人がそこへ一時的に避難していた。そこから眺める駅ビルはとても不気味だった。すでに亡霊の住処のように変わり果てていた。少なくともそのように僕には見えた。全ての人が避難し、もう誰も残っていない。大きな余震が起こるたびに、窓ガラス越しに内装が揺れ、物が壊れるのが見え、大きな音が聞こえた。下から見える上階の電灯が揃って大きく振れている様子はとても不思議な光景だった。

 帰宅困難に陥った人々で広場は混雑し、地震で精神的にショック受けた子どもや、親とはぐれた子どもが泣き叫んでいた。携帯電話やWIFIといった通信ネットワークもその場所ではほとんど役に立たず、何もすることができなかった。知人の安否もよく分からなかったし、自分の状況を遠くの人に伝えることもできなかった。商店や公衆トイレには長蛇の列ができ上がっていた。

 こうした異常時にリーダーシップを発揮し、人々を統率する人間がいる。そのポケット・パークにも周囲に指示を出し、活発に活動する人たちが現れた。リーダーシップは執らなくとも、子どもたちの心身のケアにあたる人もいた。あてもなく何かをただ待っているような、待っていないような表情で口を空けて佇んでいる大多数の人々の傍らで、少しずつ、他者に働きかける動きが生まれ始めていたのは興味深いことだった。でも、僕は結局、何もしなかった。やったことと言えば、配られていた菓子類を近くにいた、見ず知らずの少女たちに少し配ったことくらいだ。このような、非英雄的な経験も幾分かモンゴルに来ることに後ろめたさを感じさせたのかもしれない。

 夜になっても、駅前には大勢の人がいた。僕はいくつかの事情で、夜になってその場を去ることになった。

 僕は東日本大震災と、このように遭遇した。いまこうして生き残って、体験を語っていられるのはとても幸運なことだと思う。そして、もちろんのことだが、数万人の犠牲者がでたこの震災を一言で語ってしまうことはできないと思う。無傷で帰ってきた僕にさえ、ささやかながらでもこのように体験談を書くことができるのだから、津波や原子力発電所の様子を目の当たりにした人たちならもっと衝撃的な内容を描き出すことができるはずだ。でも僕はここでは、恐怖体験の競争をしたい訳ではなく、様々な形の、様々な被災の中の小さな1人の1つとしてこれを記した。震災から一周年を迎えるにあたって、おそらく、何十万、何千万人分の心情、そして祈りがあることだろう。あるいは70億人の。文字や映像になっていない、たくさんの物語があり、今後、日の目を見ないものも多いことだろう。それはそれで仕方のないことだ。再び、それが頭の中を掠(かす)めることを望んでいない人もいると思う。その全てが平等に語られるべきだという訳でもない。
 
 「涙の乗車券」でビートルズは恋について歌った。一方、郡山駅で買った未使用のチケットは僕にとって、全く別の意味を持った「涙の乗車券」となった。ビートルズ・ナンバーは震災のレクイエム(鎮魂曲)にはなりようもないけれど、この曲を聞くたびに、意味もなく、密かに震災の記憶を頭に思い描いている僕のような人も少なからずいるかもしれない。全く関連性のないものに関連性を感じる機会は、僕に限らず、多くの人にあるはずだから。そしてそのことは、この災害がもたらした恐怖や悲しみをずっと後世へ引きずっていく原因にもなるのだろう。ふとした記憶が、あらゆる光景を再生するスイッチになる。

 最後になるが、モンゴルの多くの人々が、この震災の犠牲になった人々を案じ、具体的な支援活動にあたってくださったことを、ここに書き留めておきたい。それはすべて、モンゴルに来てから知ったことばかりだった。

▼震災から1年。「私たちにできること」をあらためて考える時かも知れません。

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。03年に東京学芸大学卒業。会社勤務を経て2011年3月より国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊プログラムでモンゴルのウランバートルにグラフィックデザイン教員として派遣されている。期間は2年間。
なお、表題の“МОНГОЛ”は「モンゴル」と読む。モンゴルではこのキリル文字が公用文字。


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