読書・情報リテラシー

「リーディング・ワークショップ」の導入から考えたこと

2022-09-06 09:56 | by 松岡(主担) |

 2022年4月の学校図書館の日常「テーマ展示」で紹介した「モチモチの木鑑賞ツアー」(過去の記事はこちらから見られます。)の授業者であり本校教諭の小野田雄介先生より、より詳しい授業の内容の他、実践されている「リーディング・ワークショップ」について執筆していただきました。


「リーディング・ワークショップ」の導入から考えたこと
東京学芸大学附属小金井小学校 小野田雄介

 近年「リーディング・ワークショップ」(ルーシー・カルキンズ著『リーディング・ワークショップ』新評論 2010)という、新しい「読むこと」の学びの形が輸入され、注目を集めています。日本では「読書家の時間」(吉田新一郎 他 著『読書家の時間』新評論2014)として実践に取り組んでいらっしゃる先生方も増えてきているところです。 
 「リーディングワークショップ」では、よくある「読むこと」の一斉授業とは違って、子どもたちが読みたい本を選んで読んでいき、教師はそのための支援をしたり、リーティングスキルを明示的に示したりします。
 私は、これまでの「読むこと」の授業のように、みんなで読んでいく楽しさもあると感じているので、「読むこと」の授業を全て「リーディング・ワークショップ」に差し替える形ではなく、部分的に学級に取り入れるという形で取り組んでみました。具体的なやり方等は書籍をあたっていただくとして、ここでは「リーディング・ワークショップ」を取り入れてみて感じたことと、そこから発想した授業実践についてお伝します。

「リーディング・ワークショップ」を導入してみて
 通常、図書の時間は図書館に行って本を読むことが一般的だと思います。しかし、「リーディング・ワークショップ」を実践するにあたって、教室に本がたくさんある環境を用意したいと考え、学級貸出を利用して、常時100冊ほどの本があるようにしました。こうすることで、休み時間や授業が早く終わった時、給食の待ち時間に本を手にする子どもが増えました。また、例えば説明的文章を学習する時には、司書と連携して科学読み物を多めにするなど、ある程度、貸出する本の内容に偏りをもたせることもしました。図書館に行って、自由に本を選ぶことも大切だと思いますが、制限のかかった学級文庫から選ぶことで、普段は手にしない本との出会いもあったと思います。

 「リーディング・ワークショップ」は「ミニレッスン」→「ひたすら読む」→「共有」のサイクルで行います。それぞれの段階で面白さがありましたが、ここでは「ミニレッスン」について紹介します。
 「ミニレッスン」では、リーディングスキルについて教師が明示的に伝える時間です。どのようなスキルを伝えるのかは書籍で示されていますが、「ひたすら読む」の時に一人一人の子どもたちとカンファレンスを重ねていくと、目の前の子どもたちが関心をもっているスキルが少しずつ見えてくるようになり、そこからオリジナルミニレッスンを考えるようになりました。例えば「人物の性格」について、教科書教材や学校生活でのリアルな人間関係において話題になった時期には『となりのせきのますだくん』(武田美穂 ポプラ社 1991)を読み聞かせて、二人の性格について話し合うミニレッスンを行いました。すると子どもたちは、「本の中の人物にも性格ってあるんだな」と学んでいきます。「人物の性格」を読み取ることは、学習指導要領にも示されている内容です。子どもたちの関心が、学習指導要領の内容のどこに引っかかってくるかが感じ取れるようになると、ミニレッスンが組み立てやすかったです。もちろんこのことは、教科書教材を用いて一斉授業をする際も同じなのですが、「読むこと」の授業は学期に2教材ほどしかなく、日々の子どもたちの関心を素早く捉えて授業にすることには向いていません。その点、ミニレッスンは10分ほどで終わるので、こまめに教材化することができます。思いついたら図書館に行って、自分の構想に合う本を司書さんに何度相談したことか…(本当に感謝です!)。でもそうやって、教科書ではなく、先生が選んできた本で行うミニレッスンは、手作り感があって子どもたちも楽しんでいたように思います。それに加えて、ミニレッスンで読んだ本は、その後も学級の共通話題となることが多くありました。教科書教材で学習している際に「『となりのせきのますだくん』みたいにさあ…」と言うだけで、「人物の性格」という学習内容が想起される、という感じです。学習用語単体だけで記憶するよりも、絵本の内容とともに記憶される方が、より生きた力になるように思いました。

「リーディング・ワークショップ」を通して発想した「読むこと」の授業
 リーディング・ワークショップを重ねていくと、子どもたちは様々な読書形態を経験することができます。基本は個人での一人読書ですが、二人で同じ本を読む「ペア読書」、4〜5人で読む「グループ読書」、そして学級全員で読む「一斉読書」、といった具合です。一般的な「読むこと」の授業は「一斉読書」にあたります。リーディング・ワークショップでは、本物の本を使って読んでいるので、「一斉読書」の時だけ教科書を使うことに何となく子どもも私も違和感を感じてきていた2学期末…教科書教材の原本となる絵本を、一人一冊購入してもらって授業ができないだろうかと思いつきます。3年生でしたので、狙いを定めたのは『モチモチの木』。しかもその年はちょうど『モチモチの木』発刊50周年、そして絵を描いた滝平二郎の生誕100周年という、ダブル周年の節目の年で、本屋によっては特設コーナーまで用意していることを突き止めます。これはやるしかない!と、勝手に便乗し、保護者会で本の購入をお願いしました。本屋で手に入れやすくなっていることとともに、Amazonやメルカリで安く入手できることもお伝えしました。

 勢いで一人一冊、絵本を用意してもらえることになったものの、その後がなかなか続きません。結局、絵本を用意したところで、教科書でやるのと何が違うのでしょう…挿絵の有無はありますが、教科書にも一応挿絵はありますし…既に購入をお願いしてしまったため後には引けません。考えろ、考えるんだ!と無い知恵を無理矢理ひねる苦しい日々が続きました。しかもこの授業、ある学会で発表することにもなっていたため、ちょこちょこ学会側から「現段階での構想をお伝えください」というありがたいお声がけをいただき、その都度、苦し紛れに色々話さなければいけませんでした。毎回聞いてくださった先生方は「お話は分かりましたが、それは絵本じゃないとだめなのでしょうか」と、決して触れてはいけない部分に堂々と切り込んできます。…やっぱりやらなきゃよかった…ついにはダブル周年を呪ってやるとまで思いつめました…
 しかし、そこまでいってようやくあることに気が付きます。すごく単純なことです。絵本にあって、教科書にないものです。何でしょう?(クイズです)
 それは表紙絵です。教科書に挿絵はあっても表紙絵はありません。長い間教科書だけ使って授業をしてきた凝り固まった頭では、なかなか気がつかないものです。

 『モチモチの木』の表紙絵をご存知の方は多いのではないでしょうか。絵本雑誌MOE(2021年9月号)にて「怖い絵本」大賞に『モチモチの木』が選ばれていますが、その原動力となった(小野田の推測です)、あの表紙絵です。実は、と言うほどでもありませんが、この表紙絵は中でも同じ絵が使われている箇所があります。どうしてなのだろうと思ったので、出版している岩崎書店に問い合わせてみました。すると丁寧なスタッフさんが、少し調べてくれて、次のような返答をいただきました。

「『モチモチの木』は、絵本全体の構成やデザインも含めて、ほぼ滝平先生が決められたそうです。表紙絵については、本文の絵を描いて、その中から表紙に選んだのではなく、表紙をこういう絵にしよう、と決めてから本文の構成を考えていた、とのことです。」

 ちょっと意外に思えました。てっきり、本文の絵を描いて、その中から選んだものと思っていたからです。しかしよくよく考えれば表紙絵とはそういうものではないでしょうか。試しにお近くにある絵本を手に取ってみてください。表紙絵には、どこか描き手が作品から受け取ったメッセージが反映されているように思いませんか。『モチモチの木』の表紙絵も、そういう目で見ると、次々と面白いぐらい気づきが生まれてきます。何で豆太はこっちを向いているの?豆太の顔に光が当たっていて、じさまには当たっていないのってわざとだよね…この表紙絵なら題名は「豆太とじさま」ではないの…どうして題名が「モチモチの木」なんだろう…などです。これらについてさらに考えるには、絵本を開いて中身を読んでいくしかありません。表紙絵にはそのような、お話の世界の扉としての機能があるのだと思います。

 それならば表紙絵だけ人数分用意して、後は教科書で良いのではないかと言う声が聞こえてきそうです。それでもできるかもしれません。ですが子どもの実感として、表紙絵をめくってお話の世界に入っていくことに、私は意味があるのだと感じています。

 実際の授業は、表紙絵の鑑賞で浮かび上がった問いについて、みんなで読んでいくという形で進めました。最終的には、一人一人が改めて表紙絵を鑑賞し、文章にまとめたものを図書室に掲示しました。子どもたちの鑑賞には驚かされるものがたくさんありました。例えば、豆太の顔に光が当たっていて、じさまの顔には当たっていない理由は「きっとじさまのせ中の方で、モチモチの木が光っているのだと思います。モチモチの木が光っているのは勇気がある子どもにしか見えません。だから豆太の顔だけが光っているのです」、またじさまが見ている先が黒い理由は「たぶん、じさまは豆太の未来が心配なんだと思います。自分が死んだら豆太は一人で生きていけるのだろうかと、心配して、だから黒いのだと思います」といった鑑賞文が寄せられました。学級で鑑賞文を読み合った時には、鑑賞文どうしがつながって広がっていく場面も見られました。

 国語の学習成果物を図書館に掲示することはしばしばあると思いますが、多く見られるのは本の紹介であったり、推薦文であったりと、本の中身を対象としたものだと思います。それに対して、表紙絵の鑑賞はお話の扉を対象としています。掲示を見る人の受け取り方も少し違うのではないでしょうか。

 図書館で、本は通常、背表紙だけが見える形で並べられています。でも、ここぞというときは表紙絵が見える形で並べられます。あれはきっと、その本がもつお話の世界への誘いなのでしょう。あまり気に留めていませんでしたが、難産だった苦い記憶とともに、表紙絵の力にもっと注目してみたいと思う実践でした。












(編集 東京学芸大学附属小金井小学校 司書 松岡みどり)


次の記事 前の記事